小寺氏の居城で播磨三大城(播磨三名城)のひとつに数えられる御着城の歴史を時系列でまとめています。
御着城とは
御着城は現在の兵庫県姫路市御国野御着に所在した平城です。
西から東へと緩やかに下降する標高約13~14mの微高地に位置し、その西から南側を天川が流れて城域の区画となっています。このため、資料によってはこれを平山城と分類する場合もあります。
近世の史料では天川城や茶臼山ノ城などの別名でも記されており、山陽道に沿った交通の要衝という重要地点の防御を担う城でもありました。
築城は1519年(永正16年)、赤松氏庶流の小寺政隆によるものとされていますが、1495年(明応4年)の段銭徴収に関わる文書に小寺氏の名が見え、すでに御着城が存在していた可能性も指摘されています。
赤松氏と浦上氏の対立が続いたことと、山陽道という大動脈に沿った立地条件から重要な防衛拠点として度々戦場になりました。
1521年(永正18年)には浦上村宗攻めのため、赤松義村が御着城に着陣したことが記録され、1530年(享禄3年)には細川高国と結んで上洛を企図する村宗の攻撃によって落城し、小寺政隆は自害しています。
翌年には大物崩れなどで村宗および高国が敗死し、政隆の子の小寺則職が御着城主として復帰しました。
1569年(永禄12年)には織田信長の命を受けた木下助右衛門や三木城の別所氏が御着城を攻撃。1575年(天正3年)、小寺氏はいったん信長に臣従する道を選びます。
しかし1578年(天正6年)、荒木村重が信長から離反すると、小寺氏はこれに呼応し、反旗を翻します。
1579年(天正7年)には織田軍による播磨進攻が開始、後着城周辺は信長の嫡男・織田信忠による火攻めの被害を受けます。
御着城は三木城との連絡網を遮断されつつも、同年10月28日まで存続。しかし翌1580年(天正8年)1月、三木城に先立って開城することとなりました。
同年4月、羽柴秀吉は御着城を含む周辺諸城の破却を命じており、これにより御着城は廃城となりました。
播磨三大城たるゆえん、後着城の威容
御着城の姿は、1755年(宝暦5年)に描かれた絵図から想定することができます。
それによると、本丸を囲む内堀と北東側に備えられた二の丸をめぐる三重の堀が設けられ、南西側は天川を天然の堀としている様子がわかります。
山陽道や城下をこれらの堀に取り込む総構の城であり、1977~79年(昭和52~54年)にかけて姫路市埋蔵文化財センターが実施した発掘調査の成果でもその裏付けがとられました。
調査では礎石をもつ建物群や石組の井戸、瓦で区画された蔵とみられる建物跡などが検出されています。
瓦や陶磁器なども多数出土しており、往時には流通の拠点ともなる都市的景観をつくりだしていたことが想像されます。
なお、御着城は別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並び、「播磨三大城(播磨三名城)」と称されています。
御着城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
---|---|
1519年(永正16年) | 小寺政隆により築城 |
1521年(永正18年) | 赤松義村が浦上村宗攻めのため御着城に着陣 |
1530年(享禄3年) | 浦上村宗の攻撃で落城、政隆は自害 |
1531年(享禄4年) | 村宗らが敗死。小寺則職が御着城主に復帰 |
1569年(永禄12年) | 織田信長の命で木下氏や別所氏が御着城を攻撃 |
1575年(天正3年) | 小寺氏が織田氏に臣従 |
1578年(天正6年) | 荒木村重の織田離反に小寺氏も呼応 |
1579年(天正7年) | 織田信長軍が播磨に侵攻 |
1580年(天正8年) | 御着城が開城、のち廃城に |
1755年(宝暦5年) | 御着城の様子が絵図に描かれる |
1977~79年(昭和52~54年) | 姫路市埋蔵文化財センターにより発掘調査実施 |