御着城本丸跡にある御着城跡公園には黒田官兵衛顕彰碑が建てられています。
黒田官兵衛孝高と御着城
黒田家は、「寛政重修諸家譜」などによれば近江国伊香郡黒田村(現・滋賀県長浜市木之本町)の出身とされます。重隆の代に播磨に入り、御着城主小寺政隆に仕えました。
御着城は永正16年(1519)に築城されたと伝わりますが、明応4年(1495)に小寺氏は御着御所で段銭を徴収しており、15世紀末には既にこの地域を拠点としていました。羽柴秀吉による播磨侵攻で御着城は天正7年(1579)に陥落しました。
黒田官兵衛孝高は、羽柴秀吉の播磨侵攻、中国攻め、四国・九州遠征などで軍師として活躍し、天正15年(1587)に中津城(現・大分県中津市)を与えられました。孝高の嫡男長政は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功で筑前52万3千石を与えられ福岡城(現・福岡県福岡市)に移りました。
この地は、かつての御着城本丸跡付近に位置し、黒田官兵衛孝高の祖父重隆と父職隆の妻(孝高の母)を祀った黒田家廟所(姫路市指定史跡)があります。また南側には小寺三代城主を祀った小寺大明神があります。平成21年4月 姫路市教育委員会
ちなみに『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)というのは寛政年間(1789年〜1801年)に江戸幕府が編修し、1812年(文化9年)に完成した系譜集のことで、各大名家・旗本からの提出記録を元に作成されました。
徳川家光の代に編纂された『寛永諸家系図伝』の続集にあたり、全体では1530巻もある壮大な史料となっています。