有岡城跡史跡公園には有岡城主をつとめた荒木村重について書かれた案内板もありました。
有岡城主 荒木村重
荒木村重(むらしげ)は、幼名は十二郎(じゅうじろう)、後に弥介(やすけ)と改めます。父義村(よしむら)の代から池田城主 池田氏に仕えたとされています。
織田信長の上洛後、池田勝正(かつまさ)は、伊丹城主 伊丹親興(ちかおき)・芥川城主 和田惟政(これまさ)とともに「摂津三守護」となり、村重は勝正の家臣として、池田家中において徐々に力をつけ、池田氏の内紛に乗じてついに頭角を現します。元亀元年(1570)池田知正(ともまさ)らとともに勝正を追放し、翌年には勝正と結ぶ惟政を郡山(茨木市)の合戦で敗死させています。
元亀4年(1573)、逢坂(大津市)にて細川藤孝(ふじたか)とともに信長に対面し、その後は信長を主君を仰いで、将軍 足利義昭(よしあき)を槇島(まきしま)城(宇治市)に攻撃する際にも従っています。この時の忠節を賞賛されて、信長より摂津国を一職(いっしき)支配する「摂津国主」に任じられます。
天正2年(1574)11月15日、伊丹氏を追い落とし、伊丹城に入城します。以後ここを居城に定め、有岡城と改名しました。信濃守(しなのかみ)村重は、天正3年、摂津守(せっつのかみ)になります。
有岡城主となった村重は、以後、信長の配下として天正3年10月、播磨へ出兵し、翌年4月は光佐(顕如)が立て籠もる石山本願寺(大阪市)包囲に加わります。天正5年には、羽柴秀吉とともに雑賀(和歌山市)を攻めています。
天正6年、足利義昭や毛利輝元に通じて信長に反した別所長治(べっしょながはる)を三木城に攻めます。
しかし、同年10月、突如、村重も信長から離れ、石山本願寺とも盟約を結びます。その情報は安土城へ届き、信長は村重を思い留まらせるために明智光秀ほか近臣を有岡城へ遣わしますが、村重の決意は変わりませんでした。
村重とともに毛利方についた御着(ごちゃく)城主 小寺政織(こでらまさもと)でしたが、やはり信長方へ戻るため、村重を説得しようと、家臣の黒田官兵衛を有岡城へ遣わします。村重は、このままでは信長方となる官兵衛を城内に留め置きます。
11月、信長は安土城を発ち、古屋野(こやの、昆陽野)の陣に入ります。12月には主力部隊を塚口に置き、有岡城を総攻撃しますが落ちません。そのため、有岡城を取り囲むように付城(つけじろ)を築くよう指示します。
天正7年9月、村重は数名の家臣とともに、尼崎城主である嫡男 村次(むらつぐ)のもとに移り、本願寺・雑賀・毛利方へ援軍派遣を要請しますが、村重が望むような援軍は来ません。
有岡城の町が信長方に取られ、10月、上臈塚(じょうろうづか)砦より信長軍が侵入し、侍町に火が放たれ、すべてが焼かれ防備がなくなると、11月、城は落ちてしまいました。村重父子は尼崎城が落ちると花熊(はなくま)城(神戸市)へ移り、その後西走します。
村重は、尾道にて入道し、「道薫(どうくん)」と名のります。信長の死後尾道より堺に移り住みました。
天正14年(1586)、堺にて没したとされています。平成26年2月 伊丹市教育委員会
かなり詳細に書かれていますね。