伊丹城(有岡城)の本丸があった場所は現在、有岡城跡史跡公園として整備されています。
国鉄伊丹駅前の整備事業にともない、1975年(昭和50年)から主郭部の発掘調査をおこなったところ、北部の金光教跡からは本丸跡の石垣や建物跡、駅西側の荒村寺跡からは庭園遺構が見つかるなど、予想以上によく遺構が残されていることがわかったため、史跡公園として整備されました。
公園には土塁や石垣のほか、井戸跡や堀跡などが復元されています。
井戸は二箇所ありました。
建物跡として礎石が復元されています。
それほど大きくないので、櫓かなにかの跡でしょうか。
公園の入口にある案内板です。
国指定史跡有岡城跡
昭和五十四年十二月二十八日 指定
伊丹氏がこの場所に城を築いたのは、鎌倉時代末期頃のことである。はじめは居館として建てられたが、戦国時代を経て次第に堅固な構えになっていった。
伊丹氏の城は、天正二年(一五七四)織田信長方の武将荒木村重の攻撃によって落城した。その後村重は信長の命により有岡城と改名し、壮大な城を築いた。
有岡城は伊丹段丘の高低差を利用し、南北一・六キロメートル・東西八〇〇メートルに及ぶ惣構えが築かれ、要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦が配置された。
謀反を起した村重は、天正六年、信長勢の攻撃を受け、十ヵ月間の攻防の末、強固な城も遂に落城した。
天正八年、池田之助が城主となるが、同十一年美濃の国に転封を命ぜられ、廃城となった。
明治二十六年、鉄道の開通によって、城跡の東側が削り取られたが、土塁や堀など今もよくその姿をとどめている。
昭和五十年より発掘調査が実施され、土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構を検出し、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになった。 平成四年三月 伊丹市教育委員会
公園の周囲には堀の跡がよく残っています。
また、公園の南側にある土塁にも案内板が設置されています。
史跡有岡城跡(主郭部)
南北朝時代から伊丹氏の城として発展してきた伊丹城は、永正17年(1520)には城下町をも城の中に取り込んだ「惣構(そうがまえ)」構造の兆しが見られ、その後の一向宗との合戦など、数々の戦いを経て次第に強化されていきました。
天正2年(1574)、織田信長の部将、荒木村重(あらきむらしげ)が伊丹氏を破って入城し、「有岡城」と改名しました。そして摂津一国の軍事上の中心として大改修を行い、主郭部・侍町(さむらいまち)・町屋地区の全体を塀と土塁(どるい)で囲み、北・西・南にそれぞれ砦(とりで)を配した惣構の城を完成させました。
天正6年、村重が信長に背いたため、大軍によって包囲され、10ヵ月の攻防戦の末に落城しました。その後、池田之助(ゆきすけ)が城主となりますが、同11年には美濃国に移り、城は廃されました。城下町のうち町屋地区はそのまま残り、江戸時代には酒造りの町として栄えました。主郭部は「古城山」などと呼ばれ、堀跡や土塁が残っていましたが、明治時代に鉄道(現在のJR宝塚線)が開通したことにより、大半が取り壊されました。
しかし、昭和50年(1975)から行なわれた発掘調査により、土塁の石垣や建物跡など、貴重な遺構が残されていることがわかって、国史跡に指定されました。現在の史跡公園は昭和58年度から平成5年(1993)度まで10年以上かけて整備したものです。現在地から右手(北方)にある土塁・石垣・建物跡・井戸跡などもぜひご覧ください。 平成20年3月 伊丹市教育委員会
なお,有岡城跡・伊丹郷町遺跡からの出土品の一部は市立博物館の常設展示や市立伊丹郷町館で見ることができます。
JR伊丹駅のすぐ前なので、電車で訪問するには便利です。