明治維新後、1874年(明治7年)に廃城となった水口城の出丸部分に、往時の戌亥櫓を模した水口城資料館が1991年(平成3年)11月に開館しました。
復元時には廃城となった際に民家などへ払い下げられた材木(梁)が寄贈されたそうです。
館内にはビデオ上映コーナーのほか、城下町の復元模型や当時の資料などが展示されています。
2階は研修室として使われているようです。
2階の窓からは水口岡山城があった古城山が見えました。
城門のような建物はトイレでした。
入口脇(橋のところ)に案内板がありました。
滋賀県指定史跡水口城跡(別名・碧水城)
水口は都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに町並が形成されていましたが、天正十三年(一五八五)には羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展を見せました。
関ヶ原合戦後、この地を直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定しました。そして家康はしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺などに宿泊しています。
寛永十一年(一六三四)三代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせました。これが水口城です。作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(遠州)があたりました。
城は堀と石垣をめぐらした本丸と北側の二の丸からなり、本丸内部には御殿が建てられました。その建物構成は京都二条城に共通し、数寄をこらしたものでした。
その後、幕府の任命した城番が管理する番城となりましたが、天和二年(一六八二)には加藤明友が入封し水口藩が成立、水口城はその居城となり明治維新に至りました。
維新後は廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されましたが、本丸敷地のみは保存され、昭和四十七年(一九七二)滋賀県の史跡に指定されました。
平成三年(一九九一)出丸の部分に矢倉が復元され、「水口資料館」として開館いたしました」甲賀市教育委員会