八幡山城のある八幡山の南山麓には豊臣秀次のために築かれた居館部分があります。
山頂部に防衛空間として山城を築き、山麓に居住空間として居館を分離するこのような構造は、戦国期の城郭に数多く見られますが、近世城郭では珍しく、八幡山城が築城された当時では時代にやや逆行した二次元分離形態をとっています。
これは築城されたのが「小牧・長久手の戦い」の翌年で、しかも徳川家康との講和以前のタイミングであったため、いまだ東国に対して臨戦態勢の緊張下にあり、防衛線として八幡山城が機能したことに起因するとされています。
この秀次居館跡には安土城の2倍にあたる約270mにもおよぶ大手道が麓から一直線にのびていました。そして巨大な内枡形の食い違い虎口があり、その西側には二段、東側には四段の高石垣を構えています。
居館跡の石垣も隅部分は算木積みで積まれています。また八幡山城の石垣石材の中で、非常に大きな石が使われており、権威の象徴的に使用されていることがわかります。
現在の八幡公園の西端あたりに存在し、石垣などの遺構を確認することができます。