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戦国期の山城が大好きですが、近世の平山城や高石垣にも興奮します。天守の有無は問いません。関西在住なので城巡りは主に畿内周辺と四国・中国地方、歴史は赤松氏と三好氏の周辺を主に学習しております。

k-holyさんの攻城記録一覧(履歴)

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 感状山城

赤松氏ゆかりの山城・感状山城 - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

感状山城跡は相生市矢野町瓜生および森にまたがる感状山の尾根にあり、多段に渡る石垣造りの曲輪が特徴的な中世山城の遺跡です。 謎に包まれた感状山城の歴史 近世に成立した地誌『播磨鑑』には、建武3年(1336)、赤松円心が赤松氏の本拠地である白旗城に籠もって新田義貞率いる追討軍を50日以上に渡り足止めした際、円心の三男・則祐が出城として築いたのがこの城で、ここで勇戦した戦功によって足利尊氏から感状を授かったことから「感状山城」と呼ばれたという伝承が記されています。 『ひょうごの城』の感状山城の項(橘川真一氏)によると、『播備作城記』には「岡豊前守居城也元亀年中落城也」とあり、地元の史料『岡城記』には…

 兵庫城

兵庫津遺跡と兵庫城 - 兵庫津遺跡第62次調査 第4回現地説明会の感想と兵庫津の歴史+α - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

さる3月28日、兵庫津遺跡第62次調査の第4回現地説明会に参加してきました。 前日の神戸市からのプレスリリースで「兵庫城の天守台か」と発表され、一部のニュースサイトには「信長の中国攻め拠点」との見出しで掲載されたものです。 兵庫城の天守台か ―信長の築城技術を確認― 神戸新聞NEXT|社会|織田信長の西国進出拠点“発見” 神戸の兵庫津遺跡 兵庫城築城の経緯 兵庫城は天正8年(1580)7月に荒木村重の乱を鎮圧した戦功によって織田信長から摂津12万石を与えられた池田恒興が、その翌年に兵庫津に築いた城です。 享保17年 (1732)に記された『花熊落城記』には、荒木村重の乱における最後の戦いの舞台…

 英賀城

英賀城跡と本徳寺巡り(前編)『軍師官兵衛』が触れなかった英賀城と三木一族の歴史 - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

英賀城は、夢前川の河口一帯に瀬戸内水運の拠点として発展し、本願寺の播磨における拠点となった本徳寺の寺内町として栄えた城郭都市です。 英賀を発展させた英賀城主・三木一族 戦国期に英賀城主を務めた三木氏は伊予河野氏の一族で、讃岐三木郡を相続したという河野通堯の子・通近を祖としています。しかし、河野氏側の系譜には三木氏との関係が記録されておらず、事実かどうかは定かではありません。 永享2年(1430)に飾東郡恋ノ浜城へと移った通近は三木氏を名乗り、『播州英城日記』は4代目の通武が嘉吉3年(1443)に英賀へ入部、12月から翌文安元年(1444)11月にかけて「芝」の地に居館を築き、同2年正月に移り住…

 利神城

播磨佐用郡の山城・利神城の歴史と伝説 - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

利神城跡は佐用郡佐用町平福にあり、標高373.3mの山頂に総石垣作りの威容を誇り「雲突城」とも呼ばれたという山城の遺跡です。 利神城を築いた佐用別所氏 一般に別所氏といえば、赤松政則を支えて東播磨八郡の守護代を任された三木城主・別所則治と、その後裔である別所長治の三木別所氏が知られていますが、別所氏の諸系図では河西郡別所村から三木郡に移った赤松季則の二男頼清を別所氏の始祖とし、赤松圓心の弟「別所五郎入道」圓光がその名跡を継いだとしており、圓光から則治までの系譜は諸説あって定かではありません。 佐用郡歴史研究会が『佐用の史跡と伝説』にまとめた「別所氏略系図」には、貞和5年(1349)に別所五郎左…

 御着城

『地志 播磨鑑』と御着城落城の伝説 - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

大河ドラマ『軍師官兵衛』、次回は有岡城から救出された官兵衛が小寺政職と顔を合わせる展開となるようです。 史実においても荒木村重と示し合わせて毛利方に付いたと見られる小寺政職ですが、ドラマでは村重すらただ信長に反抗して孤立した挙句に逃げ去ったかのような描かれ方に終わりましたし、当然ながら政職の戦いぶりなど触れられそうにもありません。 ドラマでは描かれない歴史の一幕として、江戸時代の中頃に播磨の郷土史家・平野庸脩が編纂したという『地志 播磨鑑』に記されている、御着城の落城にまつわる伝説を紹介します。 『御着落城之事』 寄手は勇み進めども 此城北より西南に天川と云川あり 四方に堀二重三重にして要害堅…

 要害山城

武田信虎の甲斐統一と要害山城(武田・今川・北条の戦国黎明期) - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

はじめに:武田信虎の後世の評価への疑問 武田信虎といえば、強引な拡大政策で民衆の支持を失ったとして、板垣信方や甘利虎泰ら譜代重臣たちに擁立された実の息子・晴信(後の信玄)によって領国甲斐を追放されたという、力ずくの交代劇で知られています。 武田家滅亡後に多くの遺臣を召抱えるとともに金山開発の技術をも取り込んだ徳川幕府にとって、若き家康を打ち負かした信玄の神格化は歓迎すべきことだったのでしょう、甲州流軍学の隆盛を牽引した軍学書『甲陽軍鑑』では、実父を追放したという信玄の負い目を隠すためか信虎の暴虐ぶりが強調され、後世の軍記物などにも多大な影響を及ぼしました。 残虐性を示す逸話として「妊婦の腹裂き…

 備中松山城

天正2~3年の「備中兵乱」の背景と備中松山城、備前常山城 - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

「備中兵乱」までの備中松山城の歴史 上月城の戦い第二幕・尼子再興戦の終焉 で、天正6年(1578)7月17日に山中鹿介が最期を迎えた備中高梁の「阿井の渡」について触れましたが、この時に毛利輝元が本陣を置いていたのが、備中松山城です。 毛利輝元が入城するまでは、元就の代から毛利方として各地を転戦して活躍した備中成羽の国人・三村家親が、尼子方であった庄氏を追い落としたことから、松山城は成羽から移った三村氏の本拠地となっていました。 松山城は今の天守閣が建つ「小松山」の背後に、鎌倉時代に秋庭氏が最初に築いたという「大松山」の城があり、三村氏の頃には小松山と大松山の間に「天神丸」の存在が記録されていま…

 上月城

上月城の戦い第一幕・秀吉の播磨侵攻 - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

上月城と赤松七条家と上月氏 上月城は播磨国佐用郡の西端に位置し、美作・備前に通じる交通の要衝に築かれた城です。 天正6年(1578)に尼子勝久と山中鹿介ら旧臣達が織田方の一員として御家再興を掛けて戦った最後の舞台として知られていますが、中世における経緯はあまりよく分かっていません。 赤松円心の嫡子・範資を祖とする赤松七条家が14世紀頃から佐用郡一帯を領しており、秀吉の書状においても「七条城」と記されていることから、代々赤松七条家が城主を務めた城であったと見られています。 七条家からは、赤松政則の養子として惣領家を継承した赤松義村が出ていますが、その当時の上月城主の名前は一次史料からは明らかでは…

 浦添グスク

沖縄の城跡めぐり(浦添城)と三山時代 - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

めぐり、という程は巡れていませんが、先日の沖縄旅行で浦添城(うらそえグスク)に訪れました。 浦添城と中山王国の流れ(英祖王まで) 13~14世紀にかけて、各地で「按司」と呼ばれる指導者が石垣によって築かれた城塞「グスク」を拠点として抬頭、沖縄本島は北山、中山、南山の三大勢力に統合されていきます。 そのうち後の琉球王国の前身である中山王国の拠点が浦添城で、正史では保元の乱に敗れて琉球へと流れ着いた源為朝と大里按司の妹との間に生まれた尊敦が浦添の按司となって中山を平定、1187年に舜天と名乗って舜天王統の祖となったとされています。 (この辺りはいわゆる日琉同祖論の起源となった為朝来琉伝説が、17世…

 松山城

伊予国・松山城は屏風折の高石垣がすごい! - k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

連休で伊予国は道後に湯築城跡、そして松山城を訪ねてきました。 湯築城跡(道後公園)は、すっかり公園な感じ…。 湯築城跡と河野氏にまつわる話はまた別の機会においといて、今回は松山城のすごい石垣を写真で紹介します。 近世になって建てられた城だし、初代城主は加藤嘉明か…そんなにときめかないなぁ…などと思いつつ、「坂の上の雲ミュージアム」を見るついでくらいのテンションで行ったんですが、これが予想外の感動がありました。 松山城の概略 松山城は勝山の山頂に本丸、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸が設けられたいわゆる連郭式平山城で、築城したのはいわゆる賤ヶ岳の七本槍に数えられ叩き上げの武将として名高い加藤嘉明です。…

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今日のレビュー

図説 徳川家康と家臣団 平和の礎を築いた稀代の〝天下人〟

中の写真、図が多くて「読みやすそう」と手に取りました。家康を生んだ松平氏について、戦国大名徳川家康の苦悩、家康を支えた家族、家臣団についてなど最新の情報で詳しく著されています。大河ドラマの予習としてもいいですが、「ここはこう解釈されたのか」と復習しながらよむのも一興です。今まで定説になっている「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の家康像とは、少し違った家康像が見えてきます。

黒まめさん)

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