松山城
松山城

[愛媛県][伊予] 愛媛県松山市丸之内1


  • 平均評価:★★★★☆ 4.24(3位)
  • 見学時間:1時間37分(12位)
  • 攻城人数:3964(14位)

松山城の歴代城主一覧(松山藩・歴代藩主)

松山城は江戸時代の最初に築城した加藤嘉明、その次に蒲生忠知が城主となりましたが、いずれも一代かぎりでした。

提供:加藤嘉明像(藤栄神社蔵)

その後、松山藩に入封した松平氏(久松松平家)は1635年(寛永12年)から廃藩置県まで、16代(14人)が城主をつとめました。

松山城の歴代城主

歴代 西暦(和暦)城主メモ
11603年(慶長8年)加藤嘉明(よしあきら・よしあき)豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将のひとり。足立重信を普請奉行に任じ、松山城を築城。20万石。享年69。
21627年(寛永4年)蒲生忠知(ただとも)蒲生氏郷の孫。出羽上山城より移封。24万石。1634年(寛永11年)8月、忠知が参勤交代の途中に死去し蒲生家が断絶したため、大洲藩主・加藤泰興が一時松山城を預かる。享年31。
31635年(寛永12年)松平定行(さだゆき)松平定勝の子で、於大の方は祖母、徳川家康は伯父にあたる。伊勢桑名より移封。15万石。郷土菓子になっているタルトを長崎から松山に伝えた。享年82。
41658年(万治元年)松平定頼(さだより)松平定行の長男。父の隠居により家督を継ぐ。ほとんどを江戸で過ごし、松山入りはわずか3回であった。享年56。
51662年(寛文2年)松平定長(さだなが)松平定頼の次男。松山入りは父・定頼と同じくわずか3回であった。1674年(延宝2年)、江戸において大病に陥り、今治藩主・松平定時の嫡男の鍋之助(のちの定直)を養嗣にむかえる。享年35。
61674年(延宝2年)松平定直(さだなお)今治藩主・松平定時の長男。又従兄にあたる定長の養嗣子となり、定長の死去に伴い家督を継ぐ。配流処分となった越後高田藩主・松平光長を預かり、城内に蟄居させる。1687年(貞享4年)、藩庁を松山城二ノ丸より三ノ丸に移し二ノ丸を藩庁別棟(隠居所)とする。1705年(宝永2年)にはじめて藩札を発行。赤穂事件に関して、赤穂浪士47名のうち大石主税、堀部安兵衛ら10名を預かった。享年61。
71720年(享保5年)松平定英(さだひで)松平定直の三男。家督継承に際し、父の遺言にしたがい内分1万石を弟の定章に分知(これにより松山藩内に松山新田藩1万石が誕生)。享保の大飢饉などの気象災害が多発する。享年38。
81733年(享保18年)松平定喬(さだたか)松平定英の長男。父の死去により家督を継承。弟の松平定功を養嗣とする。享年48。
91763年(宝暦13年)松平定功(さだかつ・さだなり)松平定英の次男。従兄の松山新田藩主・定静を養嗣子とする。享年33。松山入りはわずか2回であった。
101765年(明和2年)松平定静(さだきよ)松平定功の急病によって継嗣となり、翌日には本家を継承した(その際、新田藩1万石は松山藩に返還されることなく、幕府に返上されたため、松山新田藩は消滅)。1768年(明和5年)、幕命により田安宗武の六男・豊丸(のちの定国)を養子としてむかえる。享年51。
111779年(安永8年)松平定国(さだくに)田安宗武の六男で、徳川吉宗の孫にあたる。松平定信の兄だが、兄弟仲は悪かった。1784年(天明4年)の落雷で焼失した松山城の再建を幕府に願い上げ、許可される。享年48。
121804年(文化元年)松平定則(さだのり)松平定国の次男。正室は白河藩主・松平定信の娘。1805年(文化2年)に初の藩校「興徳館」を設立。享年20。
131809年(文化6年)松平定通(さだみち)松平定国の五男。兄の養嗣子となり家督を継ぐ。藩校三省堂を設立する。1820年(文政3年)より天守再建工事にかかる。文化面のみならず殖産興業や倹約厳行などをすすめ、松山藩中興の祖として仰がれた。享年32。
141835年(天保6年)松平勝善(かつよし)薩摩藩主・島津斉宣の十一男。1832年(天保3年)、松平定通の養嗣子となる。1854年(安政元年)に天守再建。享年40。
151856年(安政3年)松平勝成(かつしげ)高松藩主・松平頼恕の三男。徳川慶喜の従兄にあたる。1864年(元治元年)の第一次長州征伐では一番手の出兵を命ぜられ勝利を収めた。1867年(慶応3年)、隠居が許され、家督を養子定昭に譲る。
161867年(慶応3年)松平定昭(さだあき)伊勢津藩主・藤堂高猷の五男。松平勝成の養嗣となり、家督を継ぐ。史上最年少の22歳で老中に就任。1868年(慶応4年)の「鳥羽・伏見の戦い」では前将軍・徳川慶喜に従ったとして朝敵の汚名を受け、蟄居謹慎を命ぜられる。
171868年(明治元年)松平勝成定昭が蟄居を命ぜられたため、再任。松平姓を返上し旧姓の久松となる。1869年(明治2年)、版籍奉還により藩知事に就任する。享年81。
181871年(明治4年)久松定昭松平定昭が蟄居を免ぜられ再び家督相続し、松山藩知事となるが、半年後には廃藩置県により知藩事を免ぜられる。
   

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今日のレビュー

源頼朝と鎌倉幕府

「日本史の知識をアップデートするための勉強会」の予習として手に取りました。本書は2003年に出版された本の再刊行となっており、その当時著者が学生向けに書いている本なので大変読みやすいです。内容的には、東国で起こった平将門の乱から北条氏中心の体制に移行するまでが解りやすく書かれています。勉強会で使用している高校の日本史教科書で中世が院政の始まりからになっていることがこの本を読んで理解出来ました。また、頼朝が征夷大将軍を欲した訳が2004年に「山槐記」の記事が新たに発見されたことにより変更されているようですが、この著書は2003年に書かれた内容なのでその部分は修正が必要とのことが最後に書かれているので、最後まで読まれることをお勧めします。前述したように学生向けに書かれた本なので、歴史初心者の方も安心して読める一冊だと思います。

まーちゃんさん)

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