松山城は「賤ヶ岳の七本槍」のひとり、加藤嘉明が、「関ケ原の戦い」での戦功で加増されたことにともない、あらたに築いた城です。
もともとは「勝山」と呼ばれていた地名は、1603年(慶長8年)10月に「松山」と改称されました。
城の完成には26年という長い年月がかかっており、嘉明自身は完成直前に会津に転封となったため、完成させたのは後任の蒲生忠知でした。
築城当初は5重の連立式望楼型天守でしたが、維持費がかかることから蒲生家のあとに入封した松平定行によって3重に改築されました。しかしその天守は落雷で焼失したため、現存する天守はその後に再建されたものです。
(改築を含めると3代目の天守)
松山城の大天守は江戸時代から現存している天守ですが、その他の建物についてはいずれも昭和になって焼失・再建されたものです。
まず、1933年(昭和8年)7月9日には放火によって小天守・南北隅櫓・多聞櫓が焼失しています。さらに1945年(昭和20年)の松山空襲で天神櫓など11棟が焼失しました。
1958年以降、順次復興されて現在の松山城の姿となりました。
松山城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
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1601年(慶長6年) | 松前城(正木城)主・加藤嘉明が徳川家康に勝山城(松山城)建築の許可を得る。 |
1602年(慶長7年) | 工事着工。 |
1603年(慶長8年) | 松前城より移る。天守五重。 |
1627年(寛永4年) | 加藤嘉明、会津40万石に転封。蒲生忠知、出羽上山城より移封。二之丸完成。 |
1634年(寛永11年) | 忠知逝去、蒲生家は嗣子無く断絶。 |
1635年(寛永12年) | 松平定行、伊勢桑名より転封。 |
1642年(寛永19年) | 天守を三重に改築。 |
1687年(貞享4年) | 三之丸邸完成。以後、藩主の居館となり、二之丸邸は嫡子の居館となる。 |
1694年(元禄7年) | 西之丸邸が完成。 |
1729年(享保14年) | 二之丸奥向屋根瓦に葺替え。 |
1784年(天明4年) | 天守が落雷で焼失。 |
1820年(文政3年) | 天守再建工事にかかる。 |
1841年(天保12年) | 二之丸邸居間などの修繕、奥向取壊し。 |
1854年(安政元年) | 天守再建。 |
1869年(明治2年) | 版籍奉還。松平勝成が松山藩知事に任ぜられ、三之丸を藩庁とする。 |
1870年(明治3年) | 三之丸邸焼失のため藩邸を二之丸邸に移す。 |
1872年(明治5年) | 二之丸邸焼失。 |
1933年(昭和8年) | 松山城放火事件により小天守、南北隅櫓、多聞櫓などが焼失。 |
1945年(昭和20年) | 乾門など戦火のため焼失。 |
1950年(昭和25年) | 松山城域21棟が重要文化財に指定される(文化財保護法制定)。 |
1958年(昭和33年) | 馬具櫓を鉄筋で復興。 |
1968年(昭和43年) | 小天守、南北隅櫓、多聞櫓、十間廊下などを木造で復興。 |
1971年(昭和46年) | 筒井門を木造で復興。 |
1972年(昭和47年) | 太鼓門を木造で復興。 |
1973年(昭和48年) | 太鼓櫓を木造で復興。 |
1979年(昭和54年) | 天神櫓を木造で復興。 |
1982年(昭和57年) | 乾門同東続櫓を木造で復興。 |
1984年(昭和59年) | 艮門同東続櫓を木造で復興、二之丸跡の発掘調査開始。 |
1986年(昭和61年) | 巽櫓を木造で復興。 |
1987年(昭和62年) | 二之丸跡遺構保護工事開始。 |
1989年(平成元年) | 二之丸跡史跡公園整備工事起工式。 |
1990年(平成2年) | 太鼓門西塀を復興。 |
1992年(平成4年) | 松山城二之丸史跡庭園開園。 |
2000年(平成12年) | 城山公園(堀之内地区)整備計画策定。 |
2006年(平成18年) | 天守など7棟保存修理工事完了。 |