大聖寺城址の本丸跡には案内板が設置されています。
(駐車場前にも同じ案内板があります)
大聖寺城址錦城山の由来
標高約六七メートルの錦城山には、南北朝以後大聖寺城が構築され、加賀の一向一揆の際にも重要な軍事拠点となっていた。現在の配置は豊臣秀吉家臣の溝口秀勝が天正十一年(一五八三)大聖寺領主となって四万四千石で封ぜられた頃に修築したと推定される。本丸を始め二の丸・鐘ヶ丸などが巧みに配置され、大規模な土塁と空堀で防備を固めていた。慶長三年(一五九八)溝口秀勝が越後新発田に転封した後、小早川秀秋の重臣であった山口玄蕃頭宗永が七万石の領主として入城した。
慶長五年(一六〇〇)、金沢の前田利長は徳川方につき、山口玄蕃は豊臣方となって敵対した。同年八月三日早朝、山口軍千二百に対して前田軍は二万五千の圧倒的兵力で攻めたて、山口父子を始め多くの将兵が討ち死にした。殿閣を焼く煙は天にそびえたという。落城後前田利長はすぐに修築し城代を置いたが、元和元年(一六一五)の一国一城令によって廃城となり、以後再建されなかった。
藩政時代はお止め山として一般人の入山を禁止したため自然回帰し、鹿や猪も生息していたという。現在でも貴重な動植物が多く、秋の紅葉の美しさから明治時代以後、「錦城山」と呼ばれ親しまれてきた。
なお大聖寺という知命は、古代から中世に栄えた白山五院の一つ、大聖寺という寺名からといわれている。平成十四年十二月 加賀市