大庭城址公園内にある大庭城址の石碑と案内板を紹介します。
大庭城址
大庭城は、平安時代の末期(12世紀末)、大庭荘(おおばのしょう)を本拠としておこった関東平氏の雄(ゆう)、大庭氏の拠点であったと伝えられますが、明らかな記録はなく、室町時代中頃(15世紀後半)になって、扇谷(おおぎがやつ)上杉定正の執事太田道灌が、本格的な築城を行ったとされています。
その後、上杉朝良のとき、北条早雲によって攻略され、以後、小田原北条氏の支配下に置かれました。そして、天正15年(1587)、小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、大庭城は、廃城となったようです。
現在残されている土塁(どるい)・空堀(からぼり)などの城址の構えには、小田原北条時代の改修があったものと考えられますが、雄大でかつ綿密に設計されていたことは、築山(つきやま)、裏門、二番構(にばんがまえ)、駒寄などの地名からもしのばれます。
大庭城蹟
此地大庭景親ノ居城ト云フ、後上杉定正修メテ、居城セシガ、永正九年子朝良ノ時、北条早雲ニ政略サレ、是ヨリ北条氏ノ持城トナッタ。廃城ノ年代未詳空塹ノ蹟等、当代城郭ノ制ヲ見ルニ足ルモノガアル。
昭和七年九月神奈川県
ほかにもこんな案内板がありました。
原始・古代の集落
この台地上には、縄文・弥生・古墳・奈良・平安時代など各時代の遺物が広く散布しており、大庭城が築かれる以前から、人々の生活舞台となっていました。
これまでの数回におよぶ部分的な発掘調査でも、縄文時代の集石(しゅうせき)遺構をはじめ、弥生時代後期から古墳時代にかけての竪穴(たてあな)住居や方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)、さらに奈良・平安時代の竪穴住居などが、豊富な生活用具(土器・石器・鉄製品・装身具等)をともなって、数多く発見されています。
これらの貴重な資料は、特に弥生時代以後の人々が、東側の引地川や西側の小糸川流域に水田を開き、この地に大規模な集落生活を営んでいたことをもの語っています。