田丸城に設置されている案内板の内容を紹介します。
三重県指定 史跡田丸(たまる)城跡
- 指定年月日
- 昭和28年5月7日
- 史跡の総面積
- 166,000m2
沿革
田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐(ごだいご)天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房(きたばたけちかふさ)が、愛州(あいす)氏や度会(わたらい)氏などの援助を得てこの玉丸(たまる)山に築いて南朝方の拠点としたことが始まりとされる。南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊(おおみなと)に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となった。
室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村の多気に館を構えた北畠氏の支城として伊勢志摩支配の拠点となっていた。天正3年(1575)、織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄(おだのぶかつ)が、玉丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には三層の天守閣を建て田丸城の誕生となった。天正8年には、この天守閣は炎上した。
江戸時代には紀州藩主徳川頼宣(とくがわよりのぶ)の家老久野宗成(くのむねなり)が田丸城主となり、久野家は代々城代を勤めた。城は、明治2年(1869)に廃城となり、同4年には城内の建物は取り払われた。昭和3年(1928)、国有林となっていたこの城地の払下げに祭し、村(むら)山龍平(やまりょうへい)の寄付により町有となり、その後残りの城地も町有化し、町民に開放された。
平成7年3月 玉城町