大給城
大給城

[愛知県][三河] 愛知県豊田市大内町


  • 平均評価:★★★★☆ 3.76(--位)
  • 見学時間:59分(--位)
  • 攻城人数:409(288位)

大給城址の案内板

大給城址に設置されている案内板の内容を紹介します。

大給城址(おぎゅうじょうし)
 大給城址は、西方眼下に九久平(くぎゅうたいら)の集落を見下ろす標高二〇四メートルの急峻な山上に築かれている。九久平は足助(あずけ)街道と新城(しんしろ)街道との交差点であると同時に、巴川の水運と陸上輸送との中継地でもあるという交通の要衝であった。
 城の東西には、尾根づたいに攻めて来る敵の侵入を防ぐために、堀切(ほりきり)A・Bを設けている。東側からの進入路を通ると、門や櫓などで防御された虎口(こぐち)(入口)Cを抜け、曲輪(くるわ)2を経て主郭1へと至る。城内のいたる所には花崗岩の巨石が見られ、主要な部分は石垣で固められている。Fは物見岩と呼ばれ、ここからは尾張の国をはじめ遠く鈴鹿の山々を望むことができる。岩上には一辺数センチメートルの穴が並んでいるが、いつ何のために開けられたかは不明である。D・Eは石垣を駆使して谷に設けられた大規模な取水施設である。主郭1から南に下ったところにある3は城主の館跡とかんがえられる。
 本城は、もと土豪長坂新左衛門の城であったが、岩津(いわづ)(岡崎市)に進出した松平宗家三代の信光が攻略し、三男親忠(ちかただ)(松平宗家四代)に与えた。親忠は細川城(岡崎市)とともにこれを次男乗元(のりもと)に譲り、乗元が大給松平氏の初代となった。大給松平二代乗正は永正七年(一五一〇)までに城の大修築を行った。以後、乗勝、親乗、真乗、と続き、天正一八年(一五九〇)六代家乗のとき徳川家康の関東への国変へに伴って上野国(こうずけのくに)(現群馬県)に移り、大給城は廃城となった。
豊田市教育委員会

   

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江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸

攻城団の勉強会で話題となった江戸時代に書かれた日記関係の書籍を読んでみたくなり、図書館のホームページで検索した所、何度か読んだことのある山本博文先生が書かれた「江戸お留守居役の日記◆寛永期の萩藩邸◆」が抽出されたので読んでみることにしました。内容は萩藩の江戸留守居役である福間彦右衛門によって寛永期に書かれた日記が元になっています。この本を読むまでは、江戸屋敷に常駐している藩士は自由に江戸の町で行動出来ると思っていましたが、実際はかなり制限されており、不自由な生活を余儀なくされていた事を知りました。そのような過酷な環境の中で藩士が起こした不始末や幕府から出された命令を、留守居役の彦右衛門が町奉行、旗本と相談しながら解決していく様が描かれています。なお、屋敷外での勤務、藩邸周辺の警備にあたる辻番所は近代の交番のルーツだそうです。当時の江戸屋敷の武士、町民の生活が垣間見られた一冊です。

まーちゃんさん)

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