大給城址(おぎゅうじょうし)
大給城址は、西方眼下に九久平(くぎゅうたいら)の集落を見下ろす標高二〇四メートルの急峻な山上に築かれている。九久平は足助(あずけ)街道と新城(しんしろ)街道との交差点であると同時に、巴川の水運と陸上輸送との中継地でもあるという交通の要衝であった。
城の東西には、尾根づたいに攻めて来る敵の侵入を防ぐために、堀切(ほりきり)A・Bを設けている。東側からの進入路を通ると、門や櫓などで防御された虎口(こぐち)(入口)Cを抜け、曲輪(くるわ)2を経て主郭1へと至る。城内のいたる所には花崗岩の巨石が見られ、主要な部分は石垣で固められている。Fは物見岩と呼ばれ、ここからは尾張の国をはじめ遠く鈴鹿の山々を望むことができる。岩上には一辺数センチメートルの穴が並んでいるが、いつ何のために開けられたかは不明である。D・Eは石垣を駆使して谷に設けられた大規模な取水施設である。主郭1から南に下ったところにある3は城主の館跡とかんがえられる。
本城は、もと土豪長坂新左衛門の城であったが、岩津(いわづ)(岡崎市)に進出した松平宗家三代の信光が攻略し、三男親忠(ちかただ)(松平宗家四代)に与えた。親忠は細川城(岡崎市)とともにこれを次男乗元(のりもと)に譲り、乗元が大給松平氏の初代となった。大給松平二代乗正は永正七年(一五一〇)までに城の大修築を行った。以後、乗勝、親乗、真乗、と続き、天正一八年(一五九〇)六代家乗のとき徳川家康の関東への国変へに伴って上野国(こうずけのくに)(現群馬県)に移り、大給城は廃城となった。
豊田市教育委員会
峠の頂部に登城口があります。 この日はボルダリングの練習している人が多く、駐車場は満車、写真でも見切れているように峠付近も路駐の列ができていました。
ここからが大給城の城域のようです。
両脇は櫓台になっています。
主郭から土塁が虎口の櫓まで続いていました。
主郭の仕切石垣は北側虎口に続き、さらにその下の腰曲輪まで落ち込んでいます。
主郭はこの石垣で東西に分断されています。
岩盤が剥き出しになっています。 石碑は「明治天皇碑」です。
主郭を東西に分断しています。
主郭南側虎口から
主郭を東西に分断しています。
巨石の上に城址碑が立っています。
ここで1グループがボルタリングをしていました。
主郭の西端には物見岩という巨岩が露出しています。
このような風景があちらこちらに。
主郭の南側に館跡とされる方形の平場がありました。
館跡(3曲輪)付近、主郭側にある巨岩と石垣の壁です。
主郭側からは気が付かなかったのですが下からみるとこんなことに。 もう一度主郭まで確認しに行きました。
一部石垣で補強されていました。
二段の巨石の上にさらに石積が
土塁代わりになっています。 よじ登ってみたくなるのもたしかにわかります。
巨石で構成されていました。
昔のダム跡と言うのもなかなか貴重ですね。
下りるのは中々大変でした。
水の手曲輪には堰の部分だけでなく周辺にも石垣がところどころ残っています。
城域の入口にあたる土橋は石垣造りでした。
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