織田信長の父である織田信秀によって築かれた古渡城の歴史を時系列でまとめています。
古渡城とは
古渡城は現在の愛知県名古屋市中区に所在した城で、平地に築かれた平城と呼ばれるタイプのものです。
1534年(天文3年)、織田信長の父である織田信秀によって築城され、1546年(天文15年)にはこの城で信長の元服式が執り行われました。
古渡城は周囲に二重の堀を巡らせ、南北約100m・東西約140mの方形の平面プランをもっていました。
これは16世紀半ば頃まで使われ、信秀も城主をつとめた勝幡城(南北約78m・東西約53m)のおよそ2倍の規模にあたります。
1548年(天文17年)、古渡城は清洲守護代・織田信友の重臣であった坂井大膳らの攻撃を受けます。
これは美濃侵攻の軍事行動である「加納口の戦い」において、信秀が不在の隙をついての作戦でした。
当時の尾張ではいくつかの織田家の系統(分家)がありましたが、清洲の宗家である守護代・織田大和守家と信秀の織田弾正忠家とは対立関係にあったのです。
坂井大膳は小守護代とも呼ばれ、大和守家の実権を握り主君・織田信友を操っていたともいわれています。
この時の戦いで城下町は焼き払われましたが古渡城本城は陥落せず、戦後に大膳とその他の大和守家重臣、そして信秀の家老・平手政秀との間に交渉がもたれ、翌1549年(天文18年)の秋に和睦が成立しました。
なお古渡城が坂井大膳の攻撃を受けた同年、信秀は現在の愛知県名古屋市千種区に、新たに末盛城を築いて拠点を移します。
このことによって古渡城は廃城となり、わずか14年という短い歴史に幕を閉じました。
以降、100年以上にもわたって主のない状態でしたが、その跡地は1690年(元禄3年)に再び着目されます。
ときの尾張藩主、2代・徳川光友が約1万坪の古渡城跡地を東本願寺に寄進、ここに名古屋別院が建立されました。
現在も真宗大谷派名古屋別院の境内地には古渡城址の碑があり、山門を入って左手のあたりに位置しています。
また、那古野城址を名古屋城に改築した際、そのための石材を古渡城址に一時集積したと考えられており、名古屋別院には大名家の刻印がほどこされた残石が29個残されています。
古渡城址の広大な敷地が、後々まで有効利用されたことの証左といえるでしょう。
古渡城の規模に見る、弾正忠家の実力
古渡城は平地に築かれた平城であり、そもそも本格的な戦闘のための拠点というよりも城館としての機能を優先したものと考えられます。
織田信秀が城主として居城した、以前の平城に勝幡城がありますが、これもよく似た構造のものでした。1533年(天文2年)に朝廷の内蔵頭(くらのかみ)、つまり財務長官を務めていた公卿の山科言継が勝幡城を訪れます。
言継の日記には、勝幡城の規模の大きさと建築の素晴らしさに驚嘆した内容が記されており、暗に信秀率いる織田弾正忠家の勢力・経済力を示す史料となっています。
都の公卿を驚かせた勝幡城ですが、先述の通り平面プランの規模でいえば古渡城はそのおよそ2倍を誇り、さらなる力を誇示する結果となったことは想像に難くありません。
1548年(天文17年)の坂井大膳侵攻でも落城しなかったことから堅固な防御力をもっていたことがうかがえ、内紛状態に合った対立軸の織田大和守家にとって、大きな脅威を感じさせたと考えられます。
信秀嫡男であり弾正忠家の後継者である信長の元服式をここで執り行ったことも象徴的で、広大な空間に多数の人が参列し、内外にその存在を広く知らしめたことが想像されます。
このように、信秀・信長が尾張の覇権を握っていく過程でその存在感を示す礎となった古渡城は、わずかな城歴ながらも重要な役割を果たしたことが理解できます。
古渡城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
---|---|
1534年(天文3年) | 織田信秀により、尾張領内東南方面への防備として築城される |
1546年(天文15年) | 織田信長が13歳にしてこの城で元服する |
1548年(天文17年) | 美濃侵攻で信秀が不在の折、清洲守護の織田信友配下が襲来、城下は焼けるも古渡城は落城せず |
同年 | 信秀は末盛城に移転、古渡城は廃城となる |
1690年(元禄3年) | 尾張藩主・徳川光友が古渡城跡地を真宗大谷派に寄進、名古屋別院が建立される |