上月氏によって築かれ、尼子氏が滅亡した城として知られる上月城の歴史を時系列でまとめています。
上月城とは
上月城は現在の兵庫県佐用郡佐用町に所在した山城で、佐用川西岸にある標高約194mの荒神山山頂に築かれています。
通説では本来、谷を挟んだ北側にある標高約280mの太平山山頂に築かれたとされ、それぞれに荒神山上月城・太平山上月城と呼んでいますが詳細はよくわかっていません。
(※以下、本稿では荒神山上月城を上月城と呼ぶことにします)
遺構は頂上部分にある二か所の曲輪を中心とし、荒神山の尾根筋や斜面にも曲輪を設けていますがいずれも大規模なものではありません。
また北側に一重、西側に二重の堀切を備えていたことが確認されています。
築城は1336年(延元元年)、赤松氏の一族である上月景盛によるものとされ、以降上月氏の居城として使われます。
しかし1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱で赤松満祐に合力した上月氏は、幕府の征討軍に敗北。これにより上月氏の嫡流は滅亡しました。
1557年(弘治3年)には、山名氏と赤松氏の紛争を経て赤松政元が上月城に入城しますが、1577年(天正5年)には織田軍の播磨攻めの際、羽柴秀吉の攻撃により落城。備前の宇喜多直家の幕下にあった上月景貞が上月城に入城します。
しかしほどなく秀吉の攻撃と宇喜多氏家臣の謀反により再び落城し、尼子勝久ら尼子党が上月城に入城することとなります。
翌1578年(天正6年)、上月城は毛利輝元の大軍に包囲され孤立。尼子勝久は自刃し、尼子氏の命脈は終焉を迎えました。
この落城をもって上月城は廃城となりました。
三国の境界にあった上月城の戦略的価値
上月城は大きな城ではありませんでしたが、播磨・備前・美作それぞれが接する境界に位置しており、毛利方の赤松氏や宇喜多氏が播磨方面への軍事行動を発する最前線として機能していました。
しかし前述のとおり、織田軍の播磨進攻に伴う奪取により、尼子氏再興を企図する尼子勝久や山名鹿介らが織田氏に属し、その防衛任務に就くこととなります。
播磨攻めでは在地勢力が織田氏への臣従を匂わせつつ、水面下では反抗の構えを解いていなかったため指揮官の秀吉らは大いに苦戦を強いられました。
やがて主戦場は播磨の三木城を中心とした地域へと移行し、上月城そのものの戦略的価値が低下していきます。
一方で、毛利軍にとっては播磨進出の最前線としてなお利用価値があり、宇喜多直家の要請により上月城再奪還の軍が発せられました。
これは吉川元春・小早川隆景らの毛利軍主力部隊による作戦で、上月城防衛の尼子党はわずか2千~3千の兵力での籠城を余儀なくされます。
大軍で上月城を包囲した毛利軍は積極攻勢には出ず、逆茂木や堀などの防御線を構築して兵糧攻めを行うという戦法をとりました。
しかし信長の意向はあくまでも三木城の攻略および毛利軍の足止めにあり、上月城で孤立した尼子党は実質的な捨て駒としての扱いとなりました。
その間に秀吉は信長に指示を仰ぎ、上月城救援への配慮をした痕跡がありますがその意思は変わりませんでした。
秀吉は尼子党に上月城の放棄と脱出を促す書状を送ったといいますが、尼子党は徹底抗戦を選び城兵の助命を条件に首領の尼子勝久と嫡男の豊若丸以下一族は自刃します。
尼子勝久擁立に中心的役割を果たした山名鹿介も捕虜となり、備後に移送途中で殺害されたといいます。
城の名となった上月氏、そして最後に拠った尼子氏とそれぞれの終焉の舞台となった上月城はその役目を終え、佐用郡の中心的な拠点は利神城に移ったと考えられています。
上月城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
---|---|
1336年(延元元年) | 上月景盛により築城 |
1441年(嘉吉元年) | 嘉吉の乱により上月氏嫡流が滅亡 |
1557年(弘治3年) | 赤松政元が上月城に入城 |
1577年(天正5年) | 秀吉の攻撃で上月城が落城。一時上月景貞が入城するも、再び落城し尼子勝久らが入城 |
1578年(天正6年) | 毛利輝元軍の攻囲により尼子勝久が自刃。上月城は落城し、のち廃城 |