那古野城の城址は完全に名古屋城の郭内に取り込まれたため当時の遺構は存在していません。
おおよその場所として名古屋城の二の丸だと推定されており、現在那古野城址の碑が建てられています。
石碑の文字が消えてしまっているのは、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋大空襲での出来事で、この日に名古屋城の天守や本丸御殿が焼失しています。
那古屋城跡
大永(だいえい)年間(一五二一〜二八)に、今川氏親が名古屋台地西北端(名古屋城二の丸あたり)に築いた城で、一名「柳之丸」ともいわれ、一族の今川氏豊を城主とした。
織田信秀は、天文七年(一五三八)この城を奪い、ここに居するが、同十一年(一五四二)頃に古渡城を築城して、この城を去り、以後、嫡子信長が居城したとされている。
弘治(こうじ)元年(一五五五)織田信長が清須に移った跡は、一族の織田信光がしばらくの間居城していたが、やがて廃城となった。名古屋市教育委員会
石碑の周辺は二の丸広場として整備され、広場からは東南隅櫓や再建された天守が見えます。