村上市教育委員会によって作成された村上城跡の公式パンフレットです。
過去...
越後(新潟県)北部の中心的な存在であった村上城は、標高135mの臥牛山、通称「お城山」に築かれた梯郭式(ていかくしき)の平山城です。本丸、二の丸、三の丸、山麓の城主居館跡から成り、鎌倉時代、坂東八平氏の出自である小泉荘地頭職の小泉氏を祖とする本庄氏が16世紀初頭に築城した中世城郭が原型です。本庄氏は、繁長(1539~1613)のときにひときわ勢力を得て、揚北(あがきた)地方(新潟県下越)の領袖に成長し、周辺の色部氏、鮎川氏などと争い、また上杉謙信に従い、川中島などへも出兵します。永禄11年(1568)、武田信玄に呼応した繁長は、謙信に叛きます。繁長謀反の報に接し、謙信は自らも岩船方面から上陸し、村上城を包囲しました。四方を日本海、三面川、瀬波の丘陵、湿地帯のそれぞれに護られた金城湯池の村上城は、およそ1年の籠城戦に堪えますが、やがて伊達氏、芦名氏などの仲介で和議が成立します。
天正18年(1590)、当時天下を手中にしつつある豊臣秀吉により、天正16年の庄内出兵を私戦禁止令違反に咎められ、繁長は改易され、村上城は、直江兼続の弟である大国実頼に預りとなり、春日元忠が城代として入ります。このころ作成された『瀬波郡絵図』に、村上城は、「村上ようがい(要害)」として描かれており、当時、既に城下町が形成されつつあり、山上には多くの建物があったことが分かります。その後、村上城には村上頼勝、忠勝が入りますが、元和4年(1618)、家中に内訌が生じて断絶となります。これに次ぐ堀氏によって村上城は近世城郭として次第に整備されてゆき、続く本多忠義の正保年間(1644~1648)の城下絵図では、本丸の三層天守櫓を始め、二の丸、三の丸の諸櫓、長大な石垣が確認でき、洗練された近世城郭として描かれています。当時は日本海と空の青に、白亜の天守がさぞ映えていたことでしょう。
さらに松平直矩が播磨国姫路から15万石で入ると、村上藩領は最大となり、越後の雄藩に成長し、その後、榊原政倫、松平輝貞、間部詮房などの諸氏を経て、亨保5年(1720)に内藤弌信が入り、明治維新までの約150年間、内藤氏の治世が続きます。幕末・維新の動乱期、村上藩は奥羽列藩同盟に与しますが、家老鳥居三十郎を中心とする抗戦派は羽越国境へと兵を進め、城を放棄したことにより、城下は戦禍を免れます。
寛文7年(1667)、落雷による火災で天守櫓が焼失したほか、江戸期のたび重なる火災、明治期の取り壊しや払い下げなどによって、建物こそ現存しませんが、本丸の8mを超える石垣をはじめ、隈なく山上に巡らされた苔むした石垣、天守櫓や諸門の礎石、良好に残る井戸、馬冷やし場などが往時を偲ばせています。また、山下には、一文字門や下渡門の石垣、城下三ノ丸の土塁などが残されています。さらに山中の東斜面には、本庄氏時代の虎口(こぐち)、帯曲輪群(おびくるわぐん)、堅堀などが残り、戦国時代の面影を色濃く伝えています。中世と近世の遺構が渾然一体となって残っている姿が貴重であり、平成5年6月8日に国の史跡指定を受けました。現在...
無双の名城も、?月には敵せず、現在、随時ょに綻びが生じ始めています。とりわけ、長きの風雪を耐え忍んできた石垣に孕(はら)み出しが生じているため、平成12年度から崩落危険箇所石垣の解体、積み直しを軸とした整備事業が順次進められています。国の史跡であるため、まず、文献調査や古写真の解析などをもとに、十分に検討が重ねられて整備方針が決められます。また、発掘調査によって得られる成果も参考にされます。これまでの調査では、櫓礎石、柱穴、排水処理施設、庭園泉水付随遺構などが検出されています。さらに、工事も慎重に行わねばならないため、修復には長い時間を要しますが、おざなりではない手法で、先人の遺産を100年先へも正しい姿で継承することをめざしています。
村上市の中心部に位置する独立丘であるお城山は、市民の憩いの場として親しまれ、ちいさな子供からお年寄りまで、人の姿が絶える日はありません。とくに、満開の桜に彩られる春、澄みきった空気のもと、佐渡を一望にできる秋の景色などは、すばらしいと言うほかありません。また、今も街の随所に、旧武家屋敷、枡形(ますがた)跡、鈎小路(かぎこうじ)などが見うけられ、かつての15万石の城下の繁栄のよすがとなっています。