彦根観光協会によって作成された佐和山城跡の公式パンフレットです。
佐和山城の歴史
鎌倉時代初期 近江源氏・佐々木定綱の6男時綱が、佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝えられています。
その後、佐々木家は六角氏と京極氏に分かれ、対立。佐和山城は、両勢力の境目の城として攻防が繰り返されました。戦国時代に入ると、京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、六角定頼と対峙します。しかしながら、上洛のために美濃からやってきた織田信長によって一変します。
信長は、浅井長政に妹お市を嫁がせ上洛の足がかりとし、六角氏の観音寺城を攻め、近江を制圧します。しばらくして、反信長勢力を中心に元亀の乱が始まり、信長は姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破り、浅井氏は小谷城と佐和山城に逃げ込みます。信長は、佐和山城の東西南北に武将を布陣させて包囲しました。城内に立て篭もった浅井家臣の磯野員昌は約8ヶ月籠城しますが信長に降伏。信長は重臣の丹羽長秀を配し、安土城築城までの間、近江支配の核、京都と岐阜の中継拠点、西国への最前線という機能を維持、秀吉の時代にも堀秀政、堀尾吉晴、石田三成と佐和山城に重きを置きました。
石田三成の時代には、山上に本丸以下、二の丸、三の丸、太鼓丸、法華丸などが連なり、山下には東山道に面して大手門が開き2重に巡らせた堀の内には侍屋敷、足軽屋敷、町家などの城下町が建設され、佐和山西麓には琵琶湖の松原湊につながる百間橋が敷設されました。
関ヶ原の合戦より遅れること2日、小早川秀秋ら寝返り組を主力とする15,000人の兵が佐和山城を包囲、三成は合戦で破れ湖北へ逃走、佐和山城は三成の父、兄の守備は堅く執拗な攻撃によく耐えましたが、兵力の違いはいかんともしがたく落城。天守は焼かれ自刃して果てました。
徳川家康は、関ヶ原の合戦の論功行賞として、井伊直政に佐和山城が与えられましたが、翌年、直政死去。家老の木下守勝は家康に相談し、彦根山への移築を決定しました。
佐和山城は、歴史のなかにのみ生きる城となったのです。