坂本城は1571年(元亀2年)9月に行われた比叡山焼き討ちの後、中心実行部隊として武功を上げた明智光秀によって、1573年(天正元年)に築かれた城です。
坂本の地が選ばれたのは比叡山延暦寺の監視と、港町である坂本は交通の要所として繁栄していたため、琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと思われます。
この当時の坂本城がどのような天守を構えていたかは不明ですが、姫路城のような大天守と小天守が並び建つ壮麗な城であった可能性があるそうです。
また、宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記しています。
明智は、都から4レーグァ(四里)ほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。
光秀はその後、丹波国の攻略を担当し、信長から丹波一国(約29万石)を与えられると、1580年(天正8年)には亀山城の城主となりましたが、坂本城もそのまま城主として支配していたようです。
本能寺の変ののち、山崎の戦いで光秀の敗戦を知り、安土城から移ってきた明智秀満が天守に火を放ち、光秀の妻子もろとも落城しました。
その後、一旦は羽柴秀吉が丹羽長秀に再建を命じ再建し、賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用されています。
しかし1586年(天正14年)に当時、坂本城主だった浅野長政が秀吉の命を受け、大津城を築城し居城を移したことにより廃城になりました。このとき坂本城の資材は大津城築城に使用されたといわれます。
この坂本城の廃城については、直前に大坂城の築城がはじまっており、坂本よりも大津のほうが東海道や淀川を通じた北国とのルートとして地理的に重要視されたことに加え、秀吉が1584年(天正12年)に山門復興を許可して山門(比叡山)に対する監視の必要性が薄くなったことが考えられます。
こうして坂本城は、築城から約15年で廃城となりました。
現在は坂本城のあったあたり2カ所に碑が建てられています。
ひとつは下阪本の旧北国海道沿い東南寺付近の石碑で、もうひとつは湖岸に作られた坂本城址公園の駐車場前に建てられている石碑です。この公園内には明智光秀像もあります。
また近くには「坂本城本丸跡」の石碑があります。
(国道161号線沿いの株式会社キーエンスの研修所入口にあります)
坂本城本丸跡
坂本城は、元亀2年(1571年)織田信長による山門(延暦寺)焼き討ちの後、明智光秀により東南寺川河口に築かれた水城としてよく知られている。
天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、当地の発掘調査ではじめて、坂本城本丸の石垣や石組井戸・礎石建物等が発見された。大津市教育委員会
わずか15年とはいえ、坂本城は明智光秀、丹羽長秀、杉原家次、浅野長政といった有名武将が城主を務めた城です。
現在、城郭の大半は宅地化されていますが、1979年(昭和54年)に行われた発掘調査では明智秀満が天守に火を放ち光秀の妻子もろとも落城したときのものと考えらる焼土層が発見されたり、本丸の石垣や石組井戸・礎石建物等が発見されました。
また、大量の瓦、壺、甕、碗、鉢、擂鉢、天目茶碗のほか、中国から輸入されたと思われる青磁、青白磁、白磁などの遺物が発掘されており、銭貨、鏡、刀装具、鋲などの金属製品も出土しています。
おそらく今後、坂本城であらたな発見はなさそうですが、琵琶湖の水位が下がったときにだけ見ることができる、湖岸の石垣はこのまま残してほしいですね。