坂本城址公園近くの湖畔には1995年(平成7年)に建てられた明智光秀の像が立っています。
業績
明智光秀は、北国道(西近江路)と湖上交通の要衝にあたるこの地に、元亀三年坂本城を築いた。この城は琵琶湖に臨む典型的な水城で、しかも築城に造詣の深い光秀だけに城は、豪壮華麗で、安土城に次ぐ名城といわれていた。ここで近江滋賀郡を支配し、民政は行き届いていたという。
その後、光秀は丹波を平定し、天正五年ごろから亀山城を築き、その城下町が現在の亀岡市の基礎となった。さらに同七年ころ横山城を攻めたあと、城の大改造をを行ない明智にちなんで福智山と名づけ後に福知山城となった。いまも福知山踊りには、光秀を偲ぶ歌がうたわれている。
明智光秀
われならで誰かは植えむ
一つ松心して吹け
志賀の浦風 光秀
明智光秀は、美濃国の名族、土岐氏一族の出身。永禄十年(一五六七)四十歳ごろ織田信長の家臣となる。
元亀二年(一五七一)山門焼き討ちのあと光秀は、湖岸に豪壮な坂本城を築城し、その初代城主となった。以後およそ十年間光秀は坂本城を本拠地として活躍した。光秀はすぐれた武将であっただけでなく当代一流の文化人と親交をもち茶の湯、連歌、詩歌などに造詣の深い文化人でもあった。
平成七年三月吉日
下阪本学区まちづくり推進協議会