戦国最強の鉄砲傭兵集団「雑賀衆」の本城として知られる雑賀城の歴史を時系列でまとめています。
雑賀城とは
雑賀城は現在の和歌山県和歌山市和歌浦沖中三丁目のあたりに所在した丘城です。
標高約32mの妙見山に設けられたことから妙見山城の別名でも知られています。
正確な築城年代は定かではありませんが、1532~1593年(天文~天正年間)頃(推定)に紀伊国国人の鈴木佐太夫重意によって築かれたという伝承があります。
城跡であることを示す明確な遺構は残っていませんが、山頂部は千畳敷と呼ばれる広大な平坦地が広がり、ここに城館を築いたものと考えられています。
丘城という分類名が示す通りその標高は高くはありませんが、雑賀城が所在する土地は天然の要害としての威容を誇っていました。
和歌山県の最北部あたりを東西に貫流する紀の川は、戦国時代当時にはその河口域が大きく南に折れる形となっていました。
雑賀城が所在した雑賀荘は南を和歌浦、東を雑賀川、西を当時の紀の川河口に囲まれ、海川による防御と交通網を掌握した強力な防御拠点となっていました。
また、北には弥勒寺山城を備えており、雑賀荘を訪れた宣教師のルイス・フロイスはローマ宛ての書簡の中で、その立地特性を指摘しています。
それによると、
- 雑賀の地は難攻不落の要衝としての感がある
- 二方面を海(河口を含むか)に囲まれている
- もう一方は水量の多い川が流れている
- もう一方には山岳がそびえ、出入口は一か所しかない
等の観察結果を報告しています。
このように雑賀城は河口域の三角州に立地し、陸路には山城による防御線をもった攻めにくい城であったことが想像できます。
戦国最強の鉄砲傭兵集団、「雑賀衆」の本城
雑賀という地名から想起される通り、雑賀城は戦国の鉄砲傭兵集団であった雑賀衆が本拠とした城のひとつです。
雑賀衆は常時五千挺以上ともいわれる大量の鉄砲を有し、それを組織的に運用する高度な射撃戦術に精通した集団でした。
本願寺に合力して織田信長と対峙したことが有名ですが、契約によって部隊を各地に派遣する傭兵集団的な性格ももっていました。
その棟梁として有名なのが鈴木佐太夫の子とされる雑賀孫一ですが、この人物の詳細はよくわかっていません。
鈴木を本姓として本貫地から雑賀の呼び名で知られ、孫一(市)は代々の通り名ともされています。
彼ら雑賀衆が信長から総攻撃を受けたのは1577年(天正5年)2月、紀州攻めの折でした。
雑賀衆は雑賀城を本陣として周囲に複数の防御点を構築、これを迎撃する態勢を整えました。
信長は先行して根来衆および雑賀衆の一部を切り崩して織田方に加担させており、海側・山側それぞれ約3万という大軍勢で雑賀城に迫りました。
山側の兵は佐久間信盛・羽柴秀吉・堀秀政・荒木村重らそうそうたる武将が配備され、これを織田方についた根来衆と雑賀衆の一部が先導するという形となりました。
この部隊は同月、雑賀城東側の雑賀川を渡河しての直接攻撃を画策。しかし雑賀衆は川底に逆茂木や槍などのトラップを仕掛けており、これに足をとられて進退がままならなくなった織田隊を連続射撃で撃破しました。
以降も雑賀衆のゲリラ戦術によって戦線は膠着しますが、本願寺との関係配慮等を条件に鈴木孫一らが降伏を申し出、信長はこれを受諾します。
しかし同年7月、孫一らは織田方についた雑賀衆の勢力を攻撃。これに佐久間信盛を総大将とした7~8万規模の軍勢が再び雑賀へと総攻撃をかけますが、またしてもこの地を制圧することはできませんでした。
その後も雑賀衆では内紛があり、信長の紀州攻めは秀吉の世代にまで持ち越されていきます。
1585年(天正13年)には鈴木佐太夫が藤堂高虎の謀略により粉河で切腹させられたとされ、この頃には雑賀城は廃城となっていたと考えられています。
雑賀城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
---|---|
1532~1593年(天文~天正年間)頃? | 鈴木佐太夫重意により築城(伝承) |
1577年(天正5年) | 織田信長の紀州攻めの際、攻撃を受けるが撃退 |
同年 | 信長軍による二度目の総攻撃で敗退 |
1585年(天正13年) | 藤堂高虎の謀略により、鈴木佐太夫が粉河で切腹。この頃廃城に(推定) |
1660年(万治3年) | 養珠寺の妙見堂が雑賀城跡の妙見山頂上に建立 |