米沢市によって作成された米沢観光の公式パンフレットです。公式パンフレットに藩主上杉氏についての説明が掲載されています。
藩主上杉氏(はんしゅうえすぎし)ゆかりの地を発掘
米沢は上杉の城下町として知られており、米沢藩上杉家の家祖上杉謙信は戦国の雄として、その名が歴史に刻まれています。謙信の跡を継いだ景勝は、1598年(慶長3年)秀吉の命により120万石を与えられて会津に入り、米沢には景勝の重臣直江兼続が入りました。その後、景勝は1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦において、西軍(豊臣方)に加勢したため、会津120万石から米沢30万石に減封され、これにより米沢藩初代藩主上杉景勝が誕生しました。以来米沢は、幕末の13代藩主茂憲まで上杉氏の居城として発展し、今日に伝わる上杉士魂を育み続けたのです。米沢藩上杉家(よねざわはんうえすぎけ)の家祖(かそ)上杉謙信(うえすぎけんしん)
越後守護代長尾為景の末子として春日山城に生まれ、父の死後、国の乱れを鎮圧。のち、関東管領の上杉家の名跡を譲られ、越後・関東の平定に努めました。武田信玄との川中島合戦などで名将とうたわれました。人物は清廉で、文学や道義にあつい文武両道の人でした。
米沢藩初代藩主上杉景勝(うえすぎかげかつ)
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。母は仙桃院(謙信の姉)。謙信の死後、もう一人の養子、景虎との御館の乱に勝利し、武田信玄の娘、菊姫と結婚。越後を統一し、佐渡・出羽庄内・北信濃をあわせ90万国余の大領国を確立しました。
1598年会津120万石に国替され、豊臣五大老の一人となり、1600年徳川家康と敵対し、翌年米沢30万石に減封となりました。69歳で米沢城にて没するまでのその生涯は戦国から天下統一、江戸幕府による安定という時代の転換の中にありました。米沢の礎を築いた直江兼続(なおえかねつぐ)
米沢藩初代藩主景勝の執政。越後坂戸城主長尾政景の家臣・樋口兼豊の長男。幼名は与六。早くから聡明さを見込まれ、景勝の近習に取り立てられ、1581年与板城主・直江信綱が殺害されると、名家の断絶を惜しんだ景勝が、信綱の妻・お船と結婚させ、筆頭家老直江兼続が誕生しました。1588年兼続は豊臣秀吉から「豊臣」姓を授かり、兼続を「天下の治世を任じ得る人物」と絶賛したといわれています。
徳川家康から景勝にかけられた謀反の嫌疑にも理をもって堂々と反論。これが世に有名な「直江状」です。関ヶ原の合戦後、上杉家が米沢に減封されてからも、君主・領民の為に心血を注ぎ、60年の生涯を閉じるまで現在の米沢の礎を築きました。
戦国の奇傑前田慶次(まえだけいじ)
天下人・豊臣秀吉に傾奇御免のお墨付きをもらい、義将・直江兼続が生涯の知己と認めた伝説の武将慶次は文学・和歌に優れ、源氏物語などの秘伝を授けられ、連歌も一流の歌人に交じって詠んでいます。また馬術・武道にも優れ、多くの戦場で大活躍した豪傑です。
このように文武に優れた慶次ですが、変ったことを行う「かぶきもの」でも有名です。京で自由に振る舞った後、上杉家に仕えました。同じく学問に秀でた直江兼続との親交、その主君景勝の信義を重んじる人柄に魅かれたものと思われます。米沢藩中興の祖上杉鷹山(うえすぎようざん)
米沢藩9代藩主。上杉治憲。高鍋藩主秋月種美の次男として生まれ、10歳の時上杉重定の養子となりましたが、当時藩政は財政の窮迫が進行していました。治憲は、この苦境のさなか17歳で米沢藩を襲封、米沢藩再興に成功するが、35歳で隠居。その後も治広の後見役として藩政を指導し、72歳でその生涯をとじました。
米沢の今は鷹山があってこそ。米沢織、米沢鯉、ウコギ、笹野一刀彫などなど質実剛健、質素倹約で鷹山が築いた基礎が、米沢の今を形作っているのです。伝国の辞伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3ヶ条からなる藩主としての心得です。
- 一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
- 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
- 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
内容は現在の民主主義思想であり、封建時代にあってこの政治信条は類例がありません。