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最初に鉄砲を効果的に戦いに活用した人物は誰か、と考えるとき、西暦1575年6月29日「長篠の戦い」で武田騎馬隊を阻止する為、土塁に馬防柵を立て、鉄砲による玉込めによるロスタイムをなくす「三段撃ち戦法」を考え行ったとされる織田信長を思い出します。
しかし、西暦1570年~1572年「元亀の乱」の際、「井平城の戦い」の時、既に武田軍が有効かつ効果的に鉄砲を活用していた形跡があるのです。「井平城の戦い」の中で最も激しい戦闘があったとされる「仏坂」にある「古墓(ふろんぼ)」には、徳川方の武将であります、井伊飛騨守や、愛知県新城市山吉田の鈴木家の当時一線から退いておりました鈴木重勝の三男、鈴木権蔵重俊(行年22才)を含め多くの武将が葬られております。
ここで注目されるのは、井伊飛騨守や鈴木権蔵重俊に致命傷を与えた原因なのです。井伊飛騨守は、鉄砲に的(あたり)戦死、鈴木権蔵重俊も頬当(ほおあて)の下菱縫に鉄砲を受け討死した。とあります。
つまり皆、武田軍の鉄砲により亡くなっているのです。
武田軍と言うと騎馬軍団というイメージが強いのですが、長い期間、馬を移動する場合
その食料は、人間の数倍の量を必要とされます。ですから騎馬隊とはいえ、馬の数は知れております。当時、武田軍は最強の軍団であると評判が高いのですが、その戦い方とは、騎馬と鉄砲双方を効果的に使った戦術であった様です。
話は、「長篠の戦い」に移ります。
鉄砲の威力を十二分に把握をしております武田軍が、織田・徳川連合軍が鉄砲を持って待ち構える処に、「騎馬隊」だけで勝てると思うはずはありません。
最近の調査で「長篠の戦い」の様子が分かってまいりました。
軍勢は武田軍の1万5千に対し、織田・徳川合軍は3万8千で有ったとされます。
馬防ぎの柵を2重3重につくり、武田軍の騎馬による効果を無くし、更に、そのうしろに鉄砲隊を控えさせたという、数にまさる織田側が、まず、柵で動きがとれない武田軍を弓矢や槍そして武田軍に勝る数の鉄砲で攻撃する作戦だった。つまり戦闘員の多かった為、織田・徳川連合軍が圧勝したということです。ですから「長篠の戦い」の戦術は、武田軍の戦術を身を持って経験した徳川方から出されたとする確率が高いのです。
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