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あみの3さんの攻城記録一覧(履歴)

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 佐生城

佐生城@滋賀県東近江市五個荘町 令和三年(2021)8月28日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら佐生城は近江守護・六角氏の居城である観音寺城の築かれた繖山から北方に伸びる尾根先端のピークに位置している。城跡には「後藤但馬守城跡碑」が建立されているが、城主についての詳細は不明である。同城は単郭の小規模な山城であり、繖山に伸びる尾根を切断する明確な堀切は認めらないことから、観音寺城と一体として機能していた城と見ることができる。特徴は石垣によって築かれた城であるが、石材は大半が自然石であり、矢穴技法で割られた石材は認められないなど、観音寺城の石垣と石材の加工に大きな相違がある。六角氏は有事の際観音寺城を退去し小堤城山から甲賀の三雲城へ逃げ込む戦略で、二つの城に本城と同じ石材技法で石垣を整備していたと考えられている。六角氏が織田信長の脅威に対処するために繖山の北端に出城として築きその守備を...佐生城@滋賀県東近江市五個荘町令和三年(2021)8月28日

 佐和山城

佐和山城@賀県彦根市古沢町 令和三年(2021)8月28日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら佐和山城周辺の寺社と移築門、御城印の記事は→こちら【歴史】鎌倉時代初期、近江源氏・佐々木定綱の六男時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝えられています。その後佐々木家は六角氏と京極氏に分かれ対立。佐和山城は両勢力の境目の城として攻防が繰り返されました。戦国時代に入ると、京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、六角定頼と対峙します。しかしながら、上洛のために美濃からやってきた織田信長によって一変します。信長は浅井長政に妹お市を嫁がせて上洛の足がかりとし、六角氏の観音寺城を攻め、近江を制圧します。暫くして、反信長勢力を中心に元亀の騒乱が始まり、信長は姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破り、浅井氏は小谷城と佐和山城に逃げ込みます。信長は、佐和山城の東西南北に武将を布陣させて包囲しました。城内に立...佐和山城@賀県彦根市古沢町令和三年(2021)8月28日

 放生津城

放生津城跡@富山県射水市中新湊 令和三年(2021)8月21日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら富山城郭カードは→こちら射水市指定史跡放生津城跡放生津城は、放生津潟(現在の富山新港)の西側にあった平城である。南北朝時代の軍記物語「太平記」には、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡に際し、越中守護の名越時有が一族と共に放生津の城で最期を遂げたと記している。室町時代には、越中守護畠山氏の重臣で、射水郡・婦負郡の守護代である神保氏の居城となった。明応2年(1493)室町幕府十代将軍、足利義材が京都の政変を避けて越中に逃れた。義材は放生津城主・神保長誠に支えられて放生津に幕府政権を樹立し、京都の幕府重臣細川政元と対峙した。義材のもとにへ、公家・大名が出仕し、禅僧・歌人ら多くの文化人も訪れた。かくして、放生津は北陸の政治・経済・文化の中心地として栄えた。永正17年(1520)神保長誠の子・慶宗が...放生津城跡@富山県射水市中新湊令和三年(2021)8月21日

 松波城

松波城@石川県鳳至郡能都町松波 令和三年(2021)8月11日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちらいしかわ城郭カード→こちらこの日は奥能登珠洲市を中心にした攻城です。梅雨のような夏休みの僅かな晴れ間を狙っての奥能登遠征、久しぶりに友人との再会と美味しいラーメン、楽しい一日でした【歴史】城跡の東麓には内浦街道が通り、天然の要害となる松波川が流れている。松波川は600m下流で日本海に至っており、港湾と繋ぐ運河の要素も持っていた。文明6年(1474)能登守護畠山義統の三男常陸介善智が松波の地に入部したと伝えられており、松波城の築城もこの頃と考えられる。能登畠山氏の奥能登支配における支城的役割だったと考えられるが、松波氏を取り込み能登畠山氏の有力家臣の一人に列せられるまでになった。松波城最後の城主松波義親は九代能登守護畠山義綱の三男とされており、松波常陸介家の養子となり松波氏を相続したとされ...松波城@石川県鳳至郡能都町松波令和三年(2021)8月11日

 正院川尻城

正院川尻城@石川県珠洲市 令和三年(2021)8月11日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちらいしかわ城郭カード→こちら飯田湾沿いの内浦街道が南方直下を通る交通の要衝に位置する。丘陵が海岸線近くまで迫る地形から、街道と海上を監視する適地に築城されている。タカヨウガイ(髙要害)、シモヨウガイ(下要害)、ドイ(土居)、ウチゴウ(内濠)、トノヤマ(殿山)など周辺に城に関係する小字名が残っている。正院川尻城の築城者は伝わっていないが、正院川尻村を本貫地とした長川尻氏の可能性が高い。長川尻氏は能登の有力国人として、長享元年(1487)室町幕府の奉公衆としてみえる。天正4年(1576)12月、奥能登に侵攻した上杉謙信が家臣の長与市景連を正院川尻に置いたと伝えられている。その後一旦畠山方に奪還されるが、翌5年3月に再侵攻した謙信により再び景連が置かれた。景連は越後黒滝長氏の一族とされ、謙信と織...正院川尻城@石川県珠洲市令和三年(2021)8月11日

 増島城

増島城@岐阜県飛騨市古川町片原 令和三年(2021)8月7日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら岐阜県指定史跡増島城跡増島城は鉄砲戦に適した広大な水堀を備えた飛騨で唯一の平城である。天正13年(1585)金森長近は飛騨一国を平定し高山藩主となった。養子可重は荒城郷一万石を与えられ、増島城と城下町を築いた。後に可重は二代目高山藩主として高山城に移り、増島藩主には長男重近(後の宗和、宗和流茶道の祖)を据えた。元和元年(1615)一国一城令により「古川旅館」と改称した。元禄5年(1692)金森氏が出羽の国上山に移され、飛騨は天領になる。元禄8年(1695)城は幕命により破却された。現在は天守櫓台の石垣や堀に当時の面影が残る。向かって左側石垣のみ、自然石を加工すること無く積んだ野面積みの石垣である。8mを超える高さがあり飛騨地域で最大級の高さを誇る。平成21・22年の小学校改築に伴う発掘調...増島城@岐阜県飛騨市古川町片原令和三年(2021)8月7日

 東町城

神岡城(東町城)@岐阜県飛騨市神岡町 令和三年(2021)8月7日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら飛騨市指定史跡東町城跡この地にあった東町城(別名野尻城、沖野城)は、飛騨市内で唯一の平山城です。近世以降の主要な町場である船津地区や高原川を見下ろす河岸段丘の淵に位置しています。ここからは高原川対岸にある越中東街道が良く見えあ、そこから分岐して信州方面に接続する上宝道が付近を通るなど交通の要衝に位置しています。神岡城が建つ主郭は50m四方ほどで西面が崖、それ以外の面は内堀が取り囲んでいます。その外側に幅約30m程の副郭がコの字型に取り囲み、さらに外堀が取り囲んでいます。堀や櫓台には石垣が築かれ、段丘涯には2条の竪堀が残されています。昭和期の公園整備によって遺構に大きな影響を及ぼしたと考えられますが、字絵図や整備前の図面を確認すると、曲輪や堀の形は現状と大きく変わっていないことがわかります...神岡城(東町城)@岐阜県飛騨市神岡町令和三年(2021)8月7日

 勝山城

勝山城@福井県勝山市元町 令和三年(2021)7月31日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら天正8年(1580)袋田と呼ばれていたこの地に初めて城を築いたのは、柴田勝家の一族、勝安である。勝康は九頭竜川の河岸段丘である七里壁や、北側に広がる沼地などを利用して城を築き、勝山支配の拠点とした。勝安の築いた城は、元和元年(1615)の徳川幕府による一国一城令により壊されたようである。以後その跡地には代々の代官の館が建てられる程度であった。勝山において城郭と城下町が整備されてくるのは、元禄4年(1691)に小笠原貞信が入封してからである。貞信は2万2777石をもって美濃国高須から勝山に入封した。当時勝山には城跡しかなかったので、貞信は幕府に対し築城の許可を願い出たが、実際に許可が出たのは宝永6年(1709)7月、二代信辰の代になってからである。信辰はまず、本丸の普請に取り掛かった。古い...勝山城@福井県勝山市元町令和三年(2021)7月31日

 越前大野城

大野城@福井県大野市 令和三年(2021)7月31日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら前回の記事は→こちら越前一向一揆鎮圧の功績により、織田信長から家臣の金森長近に大野郡の大半が与えられ、金森氏が大野支配のために築いたのが大野城でした。長近は天正4年(1576)から4年間をかけ標高249mの亀山の山頂に本丸を築き、麓には二の丸や三の丸を配し、城下町の整備にも力を注ぎました。その後金森長近は高山に移封となり、江戸時代に入ると越前松平氏の支城を経て大野藩として独立。天和二年(1682)からは譜代の土井氏が明治維新まで城主として藩を治めました。前回2020年8月の訪問では最短の西口から登城するも、痛恨の「お財布忘れ」天守閣への入場は勿論のこと、御城印さえ買えない悲哀を味わった💦前回のエントリーは→こちら「結楽座」の駐車場に車を停め『お財布ヨーシ!』と指差し確認!(笑)の後出発山...大野城@福井県大野市令和三年(2021)7月31日

 水口岡山城

水口城@滋賀県甲賀市水口町本丸 令和三年(2021)7月17日 - あみの3ブログ

お城検索は→こちら水口は都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期には既に町並みが形成されていましたが、天正13年(1585)には羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展をみせました。関ヶ原合戦後、この地を直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定しました。そして家康はしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺などに宿泊しています。寛永11年(1634)三代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせました。これが水口城です。作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(遠州)があたりました。城は堀と石垣をめぐらした本丸と、北側の二の丸からなり、本丸内部には御殿が建てられました。その建物構成は京都二条城に共通し、数奇をこらしたものでした。その後、幕府の任命した...水口城@滋賀県甲賀市水口町本丸令和三年(2021)7月17日

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今日のレビュー

涅槃 上

戦国の梟雄と謳われた宇喜多直家の生涯を描いた歴史小説です。

官能小説かと思わせるくらいの性的な描写があるにも関わらず、全体的に低俗な印象は無く、人間味溢れる物語でした。

備前、備中のお城がよく登場し、下巻では三国一の美女おふくさんもしっかり登場します。

現在のJR岡山駅界隈の発展の礎を築いた人物であると改めて認識しました。

デュラけんさん)

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