今日は昨年からはじめた「日本史の知識をアップデートするための勉強会」の第4回目を京都市内で開催してきました。今回の会場は京都御苑内にある拾翠亭です。
ここは五摂家のひとつであった九條家の建物で、江戸時代後期に建てられたそうです。
存在自体、京都市民でもあまり知られていないのですが、お茶や和歌など文化的な活動であれば貸し切りもできるんです。「日本史の勉強会」なら借りられますかと聞いたところオッケーだったのでお借りしました。
(ふだんも毎週木・金・土曜日は一般公開日として100円で見学できます)
冒頭に建物と庭園の見学(と撮影)タイムを設けたのですが、そのくらい見事な会場でした。
当初の雨予報が信じられないくらいの晴天だったこともあり障子を開放すると気持ちよかったですね。まあさすがに勉強会の最中は寒いので閉めましたが。
今回はP.152の「検地と刀狩」からです。
太閤検地のポイントは(従来の自己申告制の指出検地を廃止して)役人を派遣したこと、京枡など統一基準を設けたことです。それによって石高制に移行できたわけですが、なぜ貫高制から石高制に移行する必要があったのかというと貫高制は「各国の領主や大名ごとで基準がバラバラだった」からです。
つまり秀吉にとってみると全国を統一した以上、年貢の基準も統一する必然性があったわけですね。臣従した大名の自己申告を信用しないというのは、秀吉自身も家臣時代にウソの報告をしてたのかもしれませんね。
会場では「太閤検地というけれど、権力者が号令をかけたところで全国を検地し終えるのに何年かかったのか」という質問が出ましたが、じっさいには20年近くかかっています。というか秀吉が死んで終わっただけで現在進行系だったと思われます。
このへんは資料集に推移のグラフが載ってました。
見てみると秀吉は1580年(天正8年)に播磨で検地をやっていることが書かれています。
1580年(天正8年)というと、まだ信長が生きていて、三城城を2年がかりで攻め落とした頃ですね。別所氏を滅ぼして播磨を制定できたので、検地したんでしょうね。
事前に播磨でテスト実施しているというのも秀吉とその側近(三成たち奉行衆)が有能だったことを示しているなと思いました。
この資料集はほんと詳しく書かれているのですが、ほかにも田んぼを上・中・下・下々の四段階に分類して標準生産高(石盛=こくもり)を決めてるとありました。
ぼくは広さで決めると土地の良し悪しで不公平が生まれるんじゃないかとコメントしていたのですが、もちろん秀吉はそんなことお見通しでした。さすがだなあ。
また太閤検地は「一地一作人」として耕作地と農民を検地帳に記録しましたが、これは百姓の戸籍を管理することにもつながります。
試験を前提にした歴史の勉強となると、こうした単語を丸暗記することになるのですが、ぼくらは動機や因果を大事にしたいので「なぜ秀吉はこうした政策を進めたのか」と考えると、「軍事力の統制と抑制」という観点で見ると理解ができそうです。
検地によって石高制に移行すれば各大名の動員可能兵力を正確に把握できるようになり、同時に百姓の戸籍を管理することができます(≒国勢調査)。ここまでが第一段階。
また、もともと大名が動員する兵の大半が農民だったわけで、刀狩りをすることで各大名の動員可能兵力を一気に削減することができます。そうやって豊臣政権の安定化を図ったと考えるとちょっと理解しやすくなりますね。
(とぼくは解釈してるんだけどちがうのかな)
もっとも石高制も欠点はあって、それは石高制を踏襲した江戸時代に露呈していくことになります。
九州から北陸へ移封してきた有馬家が驚いたように、石高というのは理論値でしかないので気候によってかなり上下しますし、また農地開拓や治水対策などで収穫量を高める余地がある地域なら表面上の石高以上に収穫できるようになります。
そして米だけで生きてはいけないので必ず貨幣に換金することになります。となれば当然、相場の影響を受けます。全国的に米の生産量が増加すると相場は下がるけど、年貢として取り立てる米の量は同じなので財政難になります。ドル建てで取引している商社が円相場に左右されるのと同じです。
ほかにもトピックとしては、人掃令(ひとばらいれい)やバテレン追放令などをやりました。
とくに日本二十六聖人殉教につながるサン=フェリペ号事件などはスペインとポルトガルの対立などが背景にあるのですが、日本史といえども世界の情勢と無関係ではないことは理解しておかないといけませんね。
(まあ仏教であれ、鉄砲であれ、海外から伝わってきたもので日本の歴史は左右されてきたので当然ですけど)
今回は参加者も過去最大の15人でしたが、おもいのほかページが進みました。
これまでは1ページくらいだったのが、2ページ弱進んだのかな(図版をのぞいて)。その理由としてあまり話を広げられるトピックではなかったというのもあるでしょうし、初参加の方が多かったので発言しづらかったというのもあるのかなと帰りに振り返っていました。
ただ、みんなが発言できたほうがいいのかもしれないけど、だからといって強制的に発言を求めるのもちがうと思っています。聞いてるだけで楽しいという方もいるでしょうし、無理強いするようなことでもありませんしね。
大事なのは「自分の知ってることを話したい」や「わからないことを質問したい」と思ったときに躊躇せず口にできる雰囲気をつくることなので、そこは見誤っちゃいけないなといつも意識しています。
そして参加者の協力もあり、いつでも誰でも発言しやすい空気はつくれていると思います。
ということで次回の開催は3月20日(金・祝)に決まりました。
場所はこれからおさえますが、内容はP.154「朝鮮出兵」からですので、2ページくらい予習してきてくださいね。
なにか質問があればルームで聞いてください。
当日の雰囲気についてもほかの参加者に聞いてもらったほうがいいかも。
ルーム《「日本史の知識をアップデートするための勉強会」参加者用ルーム》 | 攻城団
今後継続的に開催される「日本史の知識をアップデートするための勉強会」参加者用ルームです。とりあえずどんな会か気になる方はここで質問してください。
toproadさんが城がたり「よくわかる小牧山城」を企画してくれました。愛知県小牧市と調整してくださり、学芸員の方にZoomで話していただけることになりました。小牧山城の歴史、発掘調査の成果など、いろんな話が聞けると思いますのでぜひご参加ください。
つづきを読む昨年に続いて第6回目となる団員総会を開催したのでレポートを書きました。今年は去年と同じ会場でしたが、内容はかなりアップデートしています。とくに「お城ビンゴ」は盛り上がったので、今後の定番ゲームにしていきたいですね。来年はさらに多くの団員と集まりたいです。
つづきを読む美濃守護・土岐氏の庶流である久々利氏の居城、久々利城にも攻城団のチラシを置いていただきました。可児郷土歴史館と久々利地区センター、さらに可児市観光交流館で入手可能です。
つづきを読む小栗信濃守によって築かれた本陣山城(御嵩城)にも攻城団のチラシを置いていただきました。「東美濃の山城を制覇せよ!」キャンペーンの缶バッジ受取場所でもある、御嶽宿わいわい館で入手できます。
つづきを読む土岐明智氏の居城であり、戦国時代にはその一族である妻木氏の居城になった妻木城にも攻城団のチラシを置いていただきました。もとてらす東美濃で入手できます。
つづきを読むあなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。
攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)
攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック
いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する