土井家は三河国土居村に拠点を置き、徳川家に仕えた一族である。初めは土居家を名乗っており、初代・利勝は、一説には家康の子ともいわれている。
利勝は2代将軍・秀忠に仕え、「関ヶ原の戦い」の後に下総国小見川藩1万石を与えられた。その後、加増を受けて下総国佐倉藩3万2千4百石に転封され、自身は老中に任命される。家康の死後は秀忠の第一の側近となり、秀忠の死後も3代将軍・家光に重用され、下総国古河藩へ転封となった際には石高は16万石に達していた。利勝が修築した古河城は、御三家の水戸城をも凌ぐ規模になったという。のちには大老も務めた。
しかし、4代・利久が10歳という若さで死去したことで、土井家に動揺が走る。4代将軍・家綱の計らいによって分家を興していた5代・利益が宗家に戻り、家督は相続されるものの、石高はそれまでの分与などもあって7万石まで下がってしまった。このため、家老の寺田与左衛門らが職を辞し、4百人以上の藩役人が藩を去ってしようことになる。
この後、土井家は志摩国鳥羽藩、肥前国唐津藩と転封され、8代・利里のときに古河藩ヘ戻った。10代・利厚は老中になり、20年以上務めた功績から1万石の加増を受けている。利厚は藩政にも力を注いで、貧民救済策を打ち出し、土井家の中興の名君とも称えられた。
11代・利位が大坂城代を務めていたとき、大坂町奉行所与力・大塩平八郎による反乱が起こる。利位はこれに迅速に対応し、平八郎とその息子を捕えるという手柄を立てた。この功績を受けて利位は京都所司代、西の丸老中、本丸老中と出世し、水野忠邦の「天保の改革」を補佐する。忠邦失脚後は、老中首座として活躍したが、忠邦復権後に老中を辞職した。
14代・利与のとき、戊辰戦争が勃発する。土井家は朝廷に恭順し、会津藩の追討に向かう新政府軍の兵糧方を任された。版籍奉還の後、利与は古河藩知事に任命され、宮内省に勤めて子爵位を授けられた。