宗家2代・忠政の3男である忠義が独立して立てた姫路新田藩5万石に始まり、遠江国掛川藩7万石、越後国村上藩10万石、陸奥国白河藩12万石と幾度もの転封を経て亡くなる。その跡を継いで下野国宇都宮藩10万石の藩主となった長男の忠平が入封する。
忠常、忠道と続き、次代の忠村が無嗣のまま死去したため、郡山藩本多家は6万石を減封され、弟の忠烈が家督を継いだ。忠村と忠烈はどちらも幼くして家督を継いだため、京都の守護を任される郡山藩の藩主としては幼すぎるとの理由で転封すべきとの話も出たのだが、8代将軍・吉宗のはからいで領地の移動はなく、そのかわり減封という形でまとめられている。ただ、忠烈も14歳の若さで没し、郡山藩本多家は無嗣断絶となった。