八戸城
八戸城

[青森県][陸奥] 青森県八戸市内丸


  • 平均評価:★★★☆☆ 2.60(--位)
  • 見学時間:23分(--位)
  • 攻城人数:283(371位)

城址碑(三八城公園築山内)

城址碑(三八城公園築山内)
弥一左衛門
   

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八戸城址碑の要旨
寛栄6年(1629)、南部利直は、荒地を開いて城を築き、周りには二重堀を巡らし、郡奉行をおいてこの地を治めていた。
寛文4年(1664)、利直の後を継いだ重直は、子がないまま没した。
この年将軍家綱は、重直の遺領10万石のうち8万石を次弟の七戸隼人重信に継がせ、末弟の中里数馬直房には2万石を与え新たに分家させた。
寛文6年、直房は八戸城に入り、それから250年余りにわたり歴代の藩主・賢臣達が文武に励み、農業・養蚕・織布・畜産の振興に努め、領内は豊かになっていった。
2代藩主直政は、聡明で早くから学才の誉れが高く、将軍綱吉は側仕えにとりたてた。
これに先立って朝鮮国王から将軍に屏風が送られ、これを開ける方法が屏風の外に書かれた詩に隠されていたため、著名な学者にその謎解きを命じたが果たせなかった。
それを直政がたちどころに読み解き、屏風を開けることができた。
綱吉はこれに感嘆し、福島5万石を与えようとしたが直政はこれを固辞し、この慎み深い実直な性格を愛で皇国三鏡の一つといわれる米曇羅鏡を与えた。
直政は後に御側用人となり大いに活躍した。
8代藩主信真は、闊達で人の能力を見抜く能力があり、野村軍記を登用し海陸産物の生産を盛んにし江戸に産物を輸送させ領民は利益を得、藩の財政も潤った。
9代藩主信順は、篤実で思慮深く勤勉・倹約を奨励した。
また、一族出身の木幡文内こはたぶんないをとりたて領内を豊かにした。
明治の戊辰戦争の折、奥羽連合の議が起こり諸藩の圧力が強く、八戸藩は非常に苦しい立場にあったが、信順は藩士や領民を懇々と諭し軽挙妄動を戒めた。
明治2年(1869)、版籍奉還して八戸城は政府の管理となったが、後に子爵南部利克としなり所有となった。
明治11年(1878)、八戸城に三八城神社が創建され、新羅三郎義光・南部三郎光行・南部左衛門佐直房を祀り県社に名を連ねた。
明治14年、明治天皇が北巡の際長者山で旧藩士による騎馬打毬をご覧になった。
今ここに公園の開設と三八城神社の改築が行われた記念に、町民が相談し石碑を建立し、以上のことを後世まで伝えようということになり、私が由来の碑文を作成した次第である。

昭和3年(1928)3月上旬
北海道帝国大学総長正三位勲一等農学博士 佐藤 昌介 作文
                    正七位勲六等 久保 節 書
                      石工 杉本 安太郎 刻

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