島原城
島原城

[長崎県][肥前] 長崎県島原市城内1-1183-1


  • 平均評価:★★★★☆ 3.54(--位)
  • 見学時間:1時間10分(--位)
  • 攻城人数:1587(112位)

島原城の歴史

島原城は江戸時代に島原藩の政庁として築かれた城です。
「島原の乱」の舞台となったことでも知られていますが、雲仙普賢岳による自然災害が何度も起きた場所でもあります。

なかでも、1792年(寛政4年)4月1日に起きた「寛政の大地変」では、前年からの火山性地震と噴火につづいて、普賢岳眉山が大崩落を起こし、城下の大半が埋没することになりました。
「死人10,139人、負傷者601人、死牛馬469頭、流失家3,347軒、田畑荒379町、流失船582艘」と伝わるほどの大災害で、このとき同時に発生した大津波が対岸の熊本・天草までを襲い、1万5000人が流死したそうです。
(これを「島原大変肥後迷惑」と呼びます)

こうした乱や災害でも倒壊することなく残った天守も明治時代の廃城令で破却されました。
現在は本丸に天守などが復興され、城跡公園となっています。

島原城の歴史・沿革

西暦(和暦)出来事
1618年(元和4年)島原城の築城を開始。
1624年(寛永元年)島原城完成。藩の政庁を日野江城から移す。
1637年(寛永14年)初代重政、2代勝家の圧政により「島原の乱」が起こり(〜1638年)、松倉氏は改易となる。
1638年(寛永15年)高力忠房が浜松より入城して、乱後の立て直しを進める。
1669年(寛文9年)松平氏が福知山より入城する。
1707年(宝永4年)松平忠雄が「島原大概様子書」作成。
1736年(元文元年)三十番神堂(護国寺) 建立。
1744年(延享元年)ハゼの木10万本を植彩。
1749年(寛延2年)戸田氏宇都宮より入城する。
1774年(安永3年)再び松平氏が入城する。
1792年(寛政4年)「寛政の大地変(島原大変)」が起きる。
1793年(寛政5年)藩校・稽古館創立。
1821年(文政4年)医学校・済衆館創立。
1846年(弘化3年)漂流していた島原太吉がメキシコから帰国。
1853年(嘉永6年)ロシア艦隊長崎入港、島原藩出兵。
1869年(明治2年)版籍奉還。
1871年(明治4年)廃藩置県により、島原県となる。
1874年(明治7年)廃城令により、廃城処分となり土地建物などが民間に払い下げとなる。
1876年(明治9年)天守以下建造物が破却される。本丸は畑地となり、三の丸には島原中学(現・島原高校)など学校が建ち並んだ。
1937年(昭和12年)島原城天守閣復元期成会が発足。
1960年(昭和35年)西櫓復元。
1964年(昭和39年)天守復元。
1972年(昭和47年)巽櫓復元。内部は地元出身の彫刻家・北村西望の作品を展示する西望記念館となっている。
1980年(昭和55年)丑寅櫓、長塀、時鐘楼復元。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(91番)に選定された。
2016年(平成28年)2月18日、城跡が長崎県指定史跡に指定された。
   

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