島原城は松倉(まつくら)重政が築城して以来、高力(こうりき)氏や松平氏、戸田氏らが歴代城主をつとめましたが、最後の城主は徳川慶喜の弟、松平忠和でした。
島原城の歴代城主
歴代 | 西暦(和暦) | 城主 | メモ |
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1 | 1616年(元和2年) | 松倉重政(しげまさ) | 筒井順慶、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、日野江藩(島原藩)初代藩主となった。島原城が築き、政庁を日野江城から移す。領民に悪政を敷いた。享年57。 |
2 | 1630年(寛永7年) | 松倉勝家(かついえ) | 松倉重政の嫡男。領国に悪政を敷き、1637年(寛永14年)には「島原の乱」を引き起こし、大名としては異例の斬首刑に処された(江戸時代を通じてこの一件のみ)。 |
3 | 1638年(寛永15年) | 高力忠房(ただふさ) | 高力正長の長男。3代将軍・徳川家光からの信任が厚く、「島原の乱」後の復興のために移封された。享年72。 |
4 | 1655年(明暦1年) | 高力隆長(たかなが) | 高力忠房の長男。母は真田信之の娘。父・忠房の死去により、島原藩主となる。領民に苛税を強いたため改易となり、仙台城に幽閉された。 |
5 | 1669年(寛文9年) | 松平忠房(ただふさ) | 松平忠利の長男。幕府から重用され、またそれに応えて藩政改革をおこなった。享年82。 |
6 | 1698年(元禄11年) | 松平忠雄(ただお) | 忠房の養子となり家督を継いだ。「島原大概様子」といわれる総検地を行なって、以後の島原検地の基礎を築き上げた。享年64。 |
7 | 1735年(亨保20年) | 松平忠俔(ただみ) | 松平次章の四男。忠雄の養子となり家督を継いだ。病弱のため藩主をつとめたのは約3年のみで死去。享年28。 |
8 | 1738年(元文3年) | 松平忠刻(ただとき) | 松平忠俔の養子となり家督を継いだ。緊縮財政政策による財政再建を目指した。幕府の奏者番をつとめた。参勤交代のために江戸に向かう途中に病死。享年34。 |
9 | 1749年(寛延2年) | 松平忠祇(ただまさ) | 松平忠刻の長男。家督を継いだ直後に幕命により下野宇都宮に移封となる。 |
10 | 1749年(寛延2年) | 戸田忠盈(ただみつ) | 宇都宮藩2代藩主・戸田忠余の次男。島原藩に移封となるも、病気を理由に家督を忠寛に譲って隠居し、以後は江戸で余生を送った。享年52。 |
11 | 1754年(宝暦4年) | 戸田忠寛(ただとお) | 戸田忠盈の弟。忠盈の養子となり家督を継いだ。下野宇都宮に移封され、大坂城代、京都所司代といった要職を歴任した。享年63。 |
12 | 1774年(安永3年) | 松平忠恕(ただひろ) | 松平忠刻の次男。戸田氏と交代転封し、先祖伝来の島原に戻る。1792年(寛政4年)4月1日、普賢岳眉山が大崩落を起こし、城下の大半が埋没した島原大変が発生した。「悲運の藩主」と呼ばれている。 |
13 | 1792年(寛政4年) | 松平忠馮(ただより) | 松平忠恕の六男。父が雲仙岳眉山の大爆発による心労で急死したため、家督を継いだ。幕府から1万2000両を借用し、領民の救済に努めた。享年49。 |
14 | 1819年(文政2年) | 松平忠侯(ただこれ) | 松平忠馮の四男。父のあとを引き継ぎ、財政再建を目指した。享年42。 |
15 | 1840年(天保11年) | 松平忠誠(ただなり) | 松平忠侯の次男。シーボルトの弟子となり西洋医学を学び、藩の医学校・済衆館に薬草園を作り、薬草を栽培させた。享年24。 |
16 | 1847年(弘化4年) | 松平忠精(ただきよ) | 松平忠侯の四男。長崎警備と軍事力の強化に努めた。享年28。 |
17 | 1859年(安政6年) | 松平忠淳(ただあつ) | 伊予宇和島藩主・伊達宗紀の四男。忠精の養子となって家督を継いだ。脚気から衝心を引き起こしたのが原因で、江戸で死去。享年20。 |
18 | 1860年(万延1年) | 松平忠愛(ただちか) | 第3代藩主・松平忠侯の弟、松平忠篤の長男。第5代藩主・忠精の娘・狡子と婚約することで養子となり家督を継いだ。享年18。 |
19 | 1862年(文久2年) | 松平忠和(ただかず) | 水戸藩主・徳川斉昭の十六男で、第15代将軍・徳川慶喜の弟。島原藩最後の藩主。忠愛が嗣子無く急死したため、喪を秘して急遽末期養子となって家督を継いだ。版籍奉還で島原知藩事に任命された。享年67。 |