本丸跡に設置されている山下城跡の案内板の内容を紹介します。
山下城跡(想定復元図)
山下城(やましたじょう)は、地誌(ちし)「播磨鑑(はりまかがみ)」によると、浦上久松(うらがみひさまつ)の居城(きょじょう)であるとされ、天文元年(てんもんがんねん)(1532年)頃に築城(ちくじょう)、永禄(えいろく)9年(1566年)頃に、別所氏(べっしょし)の兵站拠点基地(へいたんきょてんきち)として改修(かいしゅう)され、天正(てんしょう)6年(1578年)まで機能していたものと考えられる。
この城郭(じょうかく)は、戦国時代に珍しい「平山城(ひらやまじろ)」で、残存状態(ざんぞんじょうたい)の極めてよい城跡(しろあと)です。
賀茂川(かもがわ)を外堀(そとぼり)として、丘陵全体(きゅうりょうぜんたい)に削平地(さくへいち)(郭(くるわ))や堀切(ほりきり)・池などを巧みに配置して、守備の厳重化(げんじゅうか)と機能性(きのうせい)の有効化(ゆうこうか)を図っている。
南の最高地(比高(ひこう)30m)を本郭(ほんくるわ)とし、二の郭・二重の帯郭(おびぐるわ)で「南郭群(みなみくるわぐん)」を構成し、北東に各種の屋形(やかた)を中心とした「東郭群(ひがしくるわぐん)」を設けて、政治的な機能を図っている。
その前面には西本郭(にしほんぐるわ)を中心とした大手(おおて)を守備するための「西郭群(にしくるわぐん)」を配置している。北播磨城郭研究会(きたはりまじょうかくけんきゅうかい)