あまりに立派なので下から撮ったのですが、高さが実感できますかね・・。
奥は本丸腰巻櫓跡
天守台より撮影。
津山城の石垣は素晴らしい。
石垣が素晴らしい。
右側石段を上がると裏下門です。
向かって左側が紙櫓跡、右側が肘櫓跡。突き当たりを左に曲がると裏下門跡です。
津山市内が見渡せます。
とても立派な天守台です。もし現存していれば・・・。鬼武蔵の弟が建てた渾身の天守。登ってみたかったなあ。
天守台から撮影しました。
天守台 平成18年3月整備完了 概要 津山城の天守は、地上五階建てで、最上階以外に破風(はふ)を持たない質実な造りでした。高さは石垣を除いて約22メートルで、一般的な五層の天守としては最大規模のものです。形は、天守台の平面が正確な四角形で、上階が規則的に小さくなっていく「層塔型」(そうとうがた)と呼ばれるものです。この壮大な天守を支える礎石は、地下の穴蔵部分で確認されています。上から見ると、平らな礎石が並んでいる様子が分かります。絵図と比較すると、柱の位置と礎石の位置はほぼ一致しています。(右下の写真)。柱は、約38センチ角もある巨大なものであったことが分かっています。 天守をはじめ城内の建物は明治7年から8年(1874~75)にかけて取り壊され、石垣を残すのみとなりましたが、その後昭和11年(1936)に開催された「産業振興大博覧会」の呼び物として、本来の天守の3分の2の天守が建てられました。(右中段の写真)。「張りぼて」の愛称で親しまれましたが、空襲の目標になるという理由から、昭和20年8月に取り壊されました。 (左)北西からみた、在りし日の津山城。 (上左)西からみた天守(「津山絵図」より)。 (上右)CGで再現された天守(北東から)。 (中)「産業振興大博覧会」の際に建てられた通称“張りぼて”天守。トタン葺きで、千鳥破風が設けられている。 (下左)天守穴蔵部分の指図。■が柱の位置を示している。「津山城天守指図」江戸時代末 (下右)上空からみた天守台(舗装前)。穴蔵部分には指図の柱位置とほぼ同じ位置の礎石が並んでいる。写真中央左の石段は廃城後につけられたもの。
津山城の石垣群は素晴らしいですね。天守や櫓群が残っていれば、壮観だったでしょう。
天守台の西側より撮影しました。
東側から撮るのは珍しいかな。
概 要 裏中門は搦手(からめて)の本丸から二の丸にいたる間にある門です。門は櫓門で、石垣に囲まれた枡形(ますがた)構造になっています。発掘調査により、裏中門の礎石がみつかっています。 門の南側の枡形部分は、豊島(てしま)石や凝灰岩(ぎょうかいがん)を使った排水溝が巡り、本丸からの水を三の丸に向けて効率的に処理していたことが分かりました。また、裏中門周辺は岩盤を削り出して造成されています。これは、枡形石垣北面の根石(最下段の石垣)の下に岩盤が露出していることからも分かります。 枡形東側の雁木(がんぎ)(石の階段)は、平成26年度の整備工事により、廃城以降に追加された石段をとりのぞき、江戸期に姿を戻しています。
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