1581年(天正9年)に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍勢が吉川経家らが籠城する鳥取城を包囲して、いわゆる「鳥取の飢え殺し」と呼ばれる兵糧攻めを行った際に、秀吉が本陣を敷いたのがこの太閤ヶ平(たいこうがなる)です。
現在は国指定史跡に選ばれています。
鳥取城山上ノ丸から東に1.5kmの地点にある、本陣山(標高251m)の頂上にあります。
この陣城(戦いのために臨時的に築かれた城)で、秀吉は約100日間全軍指揮にあたりました。
運が良ければ雲海も見れるようです。
鳥取市教育委員会文化財課によって作成された鳥取城の公式パンフレットから「太閤ヶ原」のページを抜粋します。
太閤ヶ原(たいこうがなる)を歩く
太閤ヶ原は、鳥取城山上ノ丸から東に1.5kmのち天、本陣山と呼ばれる山の頂き(標高251m)にあります。1581年(天正9)の兵糧攻めに際して築かれた陣城(じんじろ)(戦いのために臨時的に築かれた城)群の本陣で、織田信長の家臣であった羽柴秀吉が約100日間全軍指揮にあたった場所です。そこからは、秀吉のほか、後に築城の名手として知られる加藤清正(かとうきよまさ)や藤堂高虎(とうどうたかとら)、キリシタン大名で著名な高山右近(たかやまうこん)、秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛(くろだかんべえ)などの武将が見た鳥取城の姿を、今も望むことができます。
太閤ヶ原の構造
太閤ヶ原の構造は、秀吉の三大城攻めとされる三木城(兵庫県三木市)攻めや、備中高松城(岡山県岡山市)攻めの本陣と比較しても圧倒的な土木量を誇り、日本最高傑作の土の陣城と評されています。鳥取城は、織田信長が毛利と雌雄を決する場として想定していた戦場でした。このことから太閤ヶ原は織田信長の出陣を前提に築かれたと考えられています。