鳥取城
鳥取城

[鳥取県][因幡] 鳥取県鳥取市東町


  • 平均評価:★★★★☆ 3.83(23位)
  • 見学時間:1時間35分(13位)
  • 攻城人数:1812(93位)

鳥取城のパンフレット

鳥取市教育委員会文化財課によって作成された鳥取城の公式パンフレットです。

提供:鳥取市教育委員会文化財課
提供:鳥取市教育委員会文化財課
城の歴史
戦国時代の鳥取城
 城は、16世紀中頃、守護大名山名氏一族の争いの過程で誕生しました。はじめは因幡山名氏の守護所の出城でしたが、1573年(天正1)、山名豊国(やまなとよくに)は本拠地を湖山池東岸の天神山城より移転し、以後、鳥取城は因幡国(鳥取県東部)の拠点となりました。やがて、毛利氏の傘下となり、天下統一を目指す織田信長の武将・羽柴(のちの豊臣)秀吉との間で壮絶な籠城戦が繰り広げられました。
 この頃の城の姿は、戦闘時は山城を利用し、通常の居住空間は山麓にありました。敵が登りやすい尾根には、尾根を切り盛りして平らな敷地を造り、その周囲に切岸(きりぎし)と呼ぶ急な斜面を造り防御としました。まさに城の字のごとく、"土から成る"城であり、城と言えばイメージされる石垣や天守はなかったと考えられています。
日本十大籠城戦 鳥取城の兵糧(ひょうろう)攻めと太閤ヶ平(たいこうがなる)
 天下統一を目指す織田信長は、1580・81年(天正8・9)の2度にわたり、羽柴(のちの豊臣)秀吉を総大将とし、毛利方の最前線であった鳥取城を攻めました。2度目の城攻めの際、籠城した吉川経家(きっかわつねいえ)に対し、秀吉は、織田信長の指示に従い、圧倒的な兵力で包囲網を敷き、一切の補給路を断つ「兵糧攻め」を行いました。これに耐えた鳥取城ですが、やがて兵糧も尽き果て場内は悲惨な状況に陥ったと言われています。ついに吉川経家は、城内で共に戦った部下や、城に避難した民衆の命と引き換えに自刃し、城は開城しました。
 この戦いは、鳥取の「渇(かつ)え殺し」と呼ばれ、秀吉の天下統一の布石となる重要なものとなりました。
 秀吉の本陣は太閤ヶ平(P13・14参照)と呼び、現在でも当時の土塁(どるい)や空堀(からぼり)がほぼ完全な形で残っています。
安土桃山時代の鳥取城
 兵糧攻めの後、新たに城主となったのは、豊臣秀吉の側近として活躍した宮部継潤(みやべけいじゅん)でした。彼は鳥取城に石垣や天守を築き(近世城郭)、城の姿を一新したとされます。息子の長房(ながふさ)は、1600年(慶長5)の関ヶ原合戦で西軍に与したため、鳥取城は、東軍の鹿野城(鳥取市鹿野町)主、亀井茲矩(かめいこれのり)や竹田城(兵庫県朝来市(あさごし))主、赤松広秀(あかまつひろひで)(斎村政広(さいむらまさひろ))などの攻撃を受け、徹底抗戦の末に開城しました。
提供:鳥取市教育委員会文化財課
江戸時代の鳥取城
 関ヶ原合戦後には、池田長吉(いけだながよし)が入ります。長吉は姫路城を築いた池田輝政(てるまさ)の弟で、鳥取城は姫路城とともに、西国の豊臣系大名の抑えを担いました。
 しかし、1615年(元和1)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると池田家は転機を迎えます。1617年(元和3)、姫路城主池田光政(みつまさ)は所領減封のうえ、因幡伯耆(いなばほうき)32万石の領主として鳥取へ転封となり、現在の鳥取県域とほぼ同じ鳥取藩が誕生しました。
 鳥取城は宮部時代から5、6万石規模の大名の居城に過ぎなかったため、池田光政は山麓を32万石の政庁として整備しました。
 1632年(寛永9)、岡山城主池田忠雄(ただお)の死去に伴い、3歳の光仲(みつなか)が家督を継ぐと、幕府は従兄弟・光政との国替を命じました。以後、鳥取城は光仲を藩祖とする鳥取池田家12代の居城となり、国内有数の大藩の政庁として存続しました。
提供:鳥取市教育委員会文化財課
近代の鳥取城
 明治維新の後、1873年(明治6)の廃城令(はいじょうれい)では、鳥取城は軍事的な必要性が認められ、建物の多くも陸軍の施設として再利用されました。しかし、国内の治安が安定すると、陸軍の撤退が決定し、1879年(明治12)に不要となった建物のほぼすべてが撤去されました。
 城跡はその後、三ノ丸や籾蔵(もみぐら)跡が学校用地として転用されたほか、扇御殿(おうぎごてん)跡に宮廷建築の第一人者である片山東熊(かたやまとうくま)の設計による仁風(じんぷう)閣(かく)(国重要文化財)が建てられました。大正時代になると、市民から要望を受けた旧藩主鳥取池田家によって久松公園(きゅうしょうこうえん)が整備されました。設計は、明治神宮外苑(めいじじんぐうがいえん)(東京都新宿区)の設計者でもある折下吉延(おりしもよしのぶ)でした。
現在そして未来の鳥取城
 大正期以降、久松公園として親しまれた鳥取城跡ですが、1943年(昭和18)の鳥取大地震(震度6、死者1210名)によって城跡も大きな被害を受けました。
 翌年、旧藩主鳥取池田家は、震災の復興に立ち向かう市民を勇気づけるため、鳥取城跡を鳥取市に寄贈します。城跡の保存の意志を引き継いだ市は、国史跡指定を契機として、石垣の修理を中心に城跡の保存と活用に取り組んでいます。2006年(平成18年)には、建物復元を含めた長期的な整備計画を策定し、現在、城の正面玄関にあたる大手登城路の復元整備に取り組んでいます。
提供:鳥取市教育委員会文化財課
提供:鳥取市教育委員会文化財課
提供:鳥取市教育委員会文化財課
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提供:鳥取市教育委員会文化財課
提供:鳥取市教育委員会文化財課
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冊子配布場所

パンフレットの現物は以下の場所で配布されています。

  • 鳥取城跡周辺:仁風閣、鳥取県立博物館、とっとり観光ガイド友の会「きなんせい家」
  • 太閤ヶ平登山口:鳥取市歴史博物館
  • 鳥取駅周辺:鳥取駅構内観光案内所、まちパル鳥取(鳥取市国際観光物産センター)
  • 鳥取砂丘周辺:砂の美術館
  • 鳥取市役所、本庁舎総合窓口、第2庁舎4階文化財課
   

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図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。

まーちゃんさん)

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