福島城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
福島城跡(ふくしまじょうあと)
現在の福島県町の地には福島城がありました。この地は、戦国時代までは、杉目(すぎのめ)城(杉妻城)または、大仏(だいぶつ)城とよばれていました。「大仏城跡出土宝塔(だいぶつじょうあとしゅつどほうとう)」(県重文)は大仏城の由緒を示しています。応永二十年(一四一三)、伊達持宗(だてもちむね)が大仏城に立てこもり、関東公方足利持氏(あしかがもちうじ)に背いたとの記録があり、戦国時代末まで伊達氏の居城でした。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の奥羽仕置により、蒲生氏郷(がもううじさと)から信夫五万石を任された木村吉清(きむらよしきよ)は文禄元年(一五九二)ころ大森(おおもり)城から杉目城に移り、福島城と改称しました。しかし、文禄四年、秀吉の命で福島城は取り壊され、その後当地は、上杉(うえすぎ)氏(一五九八〜一六六四)、本多(ほんだ)氏(一六七九〜八二)、堀田(ほった)氏(一六八六~一七〇〇)が入部し、その間は幕領となるなど頻繁に領主が変わりますが、新たに城は築かれず、陣屋での支配が行われていました。 元禄十五年(一七〇二)、板倉(いたくら)氏が三万石で信濃(しなの)から入り、福島城の整備が行われました。福島城の総面積は約二五ヘクタールで、天守閣はないものの三万石の大名の居城としては大規模なものでした。本丸は現在の知事公館付近、政務をとる二の丸は県庁舎付近にあり、城の南東を阿武隈川が流れ、その流水が内堀を巡っていました。藩主が住む殿中から眺めたお庭が現在の紅葉山公園です。また、庁舎の南側には当時の土塁が残っています。福島県