加治田城に設置されている案内板の内容を紹介します。
加治田城(かじたじょう)跡
現在古城山加治田城(かじたじょう)跡(海抜270m)と呼ばれるこの山城は、戦国時代は却敵(きゃくてき)城とも呼ばれていました。
桶狭間(おけはざま)の戦で今川氏を破った織田信長(おだのぶなが)にとって斉藤龍興(さいとうたつおき)が支配する美濃を攻略することは上洛(じょうらく)へ向けて重要な戦略でした。永禄(えいろく)七年(一五六四)信長は清洲をたち美濃に近い小牧に本拠地を移しました。信長の侵攻に備え、斉藤方である関城主長井隼人正道利(ながいはやとのしょうみちとし)を盟主(めいしゅ)として、堂洞城(どうほらじょう)主の岸勘解由信周(きしかげゆのぶちか)、加治田城(かじたじょう)主の佐藤紀伊守忠能(さとうきいのかみただよし)は、反信長の盟約を結んでいました。加治田(かじた)・堂洞(どうほら)合戦
美濃攻略に向けて犬山城を攻略した信長は、永禄(えいろく)八年(一五六五)八月木曽川を渡り鵜沼(うぬま)城(大沢基康(おおさわもとやす))、坂祝町にある猿啄(さるばみ)城(多治見修理(たじみしゅり))を次々と攻め落とし、いよいよ岸氏が守る堂洞城へと進軍していきました。
信長方への投降を断った堂洞城の岸氏に対し、秋も半ばの旧暦(きゅうれき)八月二八日午刻(うまのこく)(正午)いよいよ攻撃が開始されました。信長は高畑の恵日山(えびやま)に本陣を置いて関城から岸方へ援軍が来るのを防ぎ、夕田と蜂屋より丹羽長秀(にわながひで)らが、そして信長方に寝返った加治田城主佐藤紀伊守の軍勢が北面の加治田から攻め入りました。そして酉刻(とりのこく)(午後六時)、ついに堂洞城は落城しました。
城主佐藤紀伊守は反信長の盟約のため人質として娘の八重緑を堂洞城の岸方へ養女に出していましたが、加治田方が信長方に寝返ったのを怒った岸勘解由(きしかげゆ)は、開戦前日に加治田城からよく見える長尾丸山(ながおまるやま)でこの娘を竹槍で刺殺したとされています。
城を枕に義(ぎ)に殉(じゅん)じた岸勘解由と時勢(じせい)を洞察(どうさつ)して領地を守った佐藤紀伊守。この対照的な先人の行動は、それぞれ価値を持って人の生き方について語りかけます。
佐藤紀伊守は堂洞城陥落後八月二九日には信長家臣の斉藤新五(さいとうしんご)とともに、関城主長井隼人(ながいはやと)の反撃を衣丸(きぬまる)(現在の加治田字絹丸)で迎え撃ち、翌日には関城も陥落させています。
中濃三城の陥落後、信長の命令により斉藤新五が佐藤紀伊守の養子となり加治田城主をつぎました。
その後の佐藤紀伊守は永禄一〇年(一五六七)に隣の井深村に隠居して仏門に入り、自らが加治田に建てた龍福寺(りょうふくじ)のために尽くしました。城主をついだ斉藤新五は、信長の家臣として各地の戦闘に参加し、天正(てんしょう)一〇年(一五八二)本能寺(ほんのうじ)の変で戦死するまで、その一生を信長の天下統一に捧げました。
その後の加治田城は天正一〇年の加治田・兼山合戦を斉藤玄蕃(さいとうげんば)を大将としてしのぎましたが、玄蕃の死後に兼山城主森長可(もりながよし)の領地となり、廃城になったといわれています。
富加町史を一部改変平成十二年十一月 富加町教育委員会