宮山城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
津市指定史跡宮山城跡
この城は天文年間(1532〜1554)に木造具政(こづくりともまさ)が戸木城(へきじょう)の北の守りの支城として築いたといわれています。城は敏太(とした)神社の裏の丘陵頂を加工し、丘陵の最高所に主郭(しゅかく)を設けています。主郭の規模は南北20m、東西10mで、その周囲には高さ2~4mの土塁が取り巻き、また、虎口(こぐち)の全面にも土塁と堀があります。丘陵の東・西・北には谷があり自然の堀となっています。
天正(てんしょう)12年(1584)の小牧・長久手の戦いの際、木造氏は織田信雄軍の一員として羽柴秀吉軍の蒲生氏郷と戦うことになりました。宮山城は氏郷軍に攻められ落城し、改修された後、戸木城攻めの拠点になりました。この際、宮山城は主郭が単郭方形(たんかくほうけい)で外部施設として二重囲みの堀・土塁を設け、堀に折れを持たせた織田・豊臣型の築城技術で改修されたといわれています。
この城の北東500mにある城山城も戸木城攻めの城として築かれ、主郭は25m×12mの規模を持つ単郭方形で、二重囲みの堀を設けていて、堀・土塁に折れが見られることから宮山城跡の縄張りとよく似ています。おそらく、宮山城落城後に同一の設計者によって、宮山城の改修とほぼ同時期に城山城が造られたと考えられます。津市教育委員会