村上市教育委員会によって作成された平林城の紹介資料です。
色部氏と平林城跡
平林城跡(ひらばやしじょうあと)は、中世北越後(阿賀北)(あがきた)の小泉荘加納(こいずみのしょうかのう)を領した色部(いろべ)氏の居城で、室町時代から慶長(けいちょう)3年(1598)、同氏が出羽国金山(かねやま)城(山形県南陽市)に移るまで続いた中世の山城および居館跡です。
小泉荘は北部の本庄(ほんじょう)と南部の加納に分かれていて、鎌倉時代のはじめに小泉荘の地頭になった平姓秩父季長(たいらせいちちぶすえなが)が、建永年間(けんえいねんかん)(1206~07)頃に嫡子(ちゃくし)の行長(ゆきなが)(本庄氏の祖)に本庄、庶子(しょし)の為長(ためなが)(色部氏の祖)に加納の地頭職を譲りました。加納の地は色部条、牛屋条、粟島などからなり、これらは現在の村上市の一部(旧岩船潟・有明付近から荒川までの範囲)と粟島にあたります。
色部氏は、はじめ鎌倉に住んでいましたが、13世紀後半頃(鎌倉時代)、為長の子、公長(きみなが)が越後に移ってきたようです。色部氏の当初の本拠地は不明ですが、その姓から「小色部べ」(こいろべ)付近が比定されています。色部氏が平林城に本拠(館)を移した時期はよくわかりませんが、15世紀末(戦国時代)には平林城は色部氏の居城となっていたと考えられます。
色部勝長(かつなが)―顕長(あきなが)―長真(ながざね)の時代、越後の最高権力者は上杉謙信(うえすぎけんしん)・景勝(かげかつ)で、色部氏は重要な軍団に位置付けられ数々の戦いに参陣しながらも、在地では独自の権力基盤を保持していました。特に、天正4年(1576)から文禄(ぶんろく)元年(1592)に当主であった長真は、天正16年(1588)に景勝上洛(じょうらく)に従い、後陽成(ごようぜい)天皇から従五位下(じゅごいのげ)に叙せられ「修理大夫」(しゅりのだいぶ)に任ぜられるとともに、景勝の重臣直江兼続(なおえかねつぐ)などともに「豊臣」姓を与えられました。平林城跡の虎口(こぐち)などには織豊期(しょくほうき)城郭(じょうかく)の特徴がみられることから、この時期に長真によって平林城が改築された可能性があります。
廃城前の平林城の姿は、文禄4年(1595)の上杉景勝の領内検地に基づく、慶長2年(1597)の『越後国瀬波郡絵図』に描かれています。居館には塀を巡らせ、中央に櫓(やぐら)門や数棟の建物がみられますが、背後の山城は「加護山(かごやま)古城」と記さていることから、すでに山城は廃されていたようです。
平林城跡は国指定史跡となっています。南北朝時代から戦国時代にかけて、現在の村上市の一部と粟島を支配していた色部氏の居城跡です。