阿坂城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
阿坂(あざか)城跡 附(つけたり) 枳(からたち)城跡・高(たか)城跡
- 国指定跡 昭和五十七年四月七日指定
- 時代 南北朝・室町時代
阿坂城跡(あざかじょうあと)(史跡指定面積 一六五、五四七平方メートル)
標高三〇〇メートル余の山頂に築かれた山城で、南北三〇〇メートル、東西一五〇メートルの範囲に及ぶ。南北二つの郭(くるわ)からなり、北郭を椎ノ木城(しいのきじょう)、南郭を白米城(はくまいじょう)とも呼び、台状地を中心に堀切り、土塁(どるい)等が配されている。
阿坂城は、文和元年(一三五ニ)の南北朝の争乱を伝える資料に初めて登場するが、もっともよく知られるのは応永二十二年(一四一五)に北畠満雅(きたばたけみつまさ)が足利幕府を迎え撃った戦いである。籠城(ろうじょう)する満雅は、馬の背に白米を流して水があるように見せて、水断ち作戦に出た幕府軍を欺き(あざむき)撃退したと『南方紀伝(なんぽうきでん』(江戸時代初めに成立)は伝える。その後、永禄十二年(一五六九)、大河内城に拠る北畠具教(とものり)を攻略するため、織田信長は大軍を発し、先ず北畠の重臣大宮氏の守る阿坂城を攻撃し、落城させている。その後は、使用されることなく廃城となる。
枳城跡(からたちじょうあと)(史跡指定面積 九、六九七平方メートル)
阿坂城から東南に一キロメートル隔たった標高一八〇メートルの山頂に築かれた山城である。
城跡は東西に長い、六〇×三〇メートル、高さ六メートル規模の台状地を中心に、東と西側に堀切りを備え、北と南側には幅五~一〇メートルの平坦地が巡っているだけのものである。
なお、城跡の東側の地には現在も「城ノ下」という地名が残っている。
高城跡(たかじょうあと)(史跡指定面積 三一、五四五平方メートル)
北東方向に突き出た標高一七〇メートルの丘陵頂部に築かれた城で、東西一四〇メートル、南北一〇〇メートルの規模をもつ。六〇メートル四方の主郭を中心に南東側に削平地、西側に切り込み平地、北東側に二重の堀切を配する。主郭をめぐる土塁は西側が幅十五メートルと広く、他は五メートルと狭いが、外側での高さは一〇メートルにも達する。主郭の東辺と西辺の中央は土塁が切れ枡形状の出入口を形づくっており、戦国期の城の特徴を備えている。
『南方紀伝』に記される阿坂市rの「両出城」が枳城と高城と考えられるところから、阿坂城の国指定史跡化に伴って「附(つけたり)」として枳城跡・高城跡とも国史跡に指定されるに至った。
ニ〇〇六年十一月三十日 松阪市教育委員会