松ヶ島城
松ヶ島城

[三重県][伊勢] 三重県松阪市松ヶ島町城之腰


  • 平均評価:★★★☆☆ 2.62(--位)
  • 見学時間:20分(--位)
  • 攻城人数:227(468位)

松ヶ島城跡の案内板

松ヶ島城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。

三重県指定史跡
松ケ島(まつがしま)城跡
所在地
松阪市松ヶ島町字城ノ腰
指定
昭和三十一年十二月三日
面積
二八七平方メートル
 松ケ島はかつては保曽久美(ほそくみ)(細汲、細首とも書く)といい、参宮古道に沿い、三渡(みわたり)川の河口を控えた海陸交通の要衝であった。 天正八年(一五八〇)、織田信雄(おだのぶお)(信長の二男)は南伊勢統治の居城を田丸(たまる)城(渡会郡玉城町)からこの地に移し、松ケ島城と称し、五層の天守がそびえていたという。その後、信雄の家臣津川義冬(つがわよしふゆ)、滝川雄利(たきがわかつとし)を経て、同十二年、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の部将蒲生氏郷(がもううじさと)が十二万石の大名として入城した。 ところが、氏郷は四五百森(よいほのもり)に着目して築城し、新城下松坂に移り、本城下の町人や社寺はすべて強制移住させられて、松ケ島は瞬時にしてもとの一漁村に変容した。 古図や検地帳には天主跡・堀之内・丸之内・城の内・南之内・日の丸といった城郭名や、殿町・本町・西町・紙屋町・ほうく町・鍛冶町という町名が見え、往時の繁栄をしのばせる。 ここに残る指定地は俗に天守山と呼ばれ、付近から金箔をおした古瓦片などが出土しており、本丸天守の跡と考えられる。

 昭和六十二年三月三十日
松阪市教育委員会

   

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江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸

攻城団の勉強会で話題となった江戸時代に書かれた日記関係の書籍を読んでみたくなり、図書館のホームページで検索した所、何度か読んだことのある山本博文先生が書かれた「江戸お留守居役の日記◆寛永期の萩藩邸◆」が抽出されたので読んでみることにしました。内容は萩藩の江戸留守居役である福間彦右衛門によって寛永期に書かれた日記が元になっています。この本を読むまでは、江戸屋敷に常駐している藩士は自由に江戸の町で行動出来ると思っていましたが、実際はかなり制限されており、不自由な生活を余儀なくされていた事を知りました。そのような過酷な環境の中で藩士が起こした不始末や幕府から出された命令を、留守居役の彦右衛門が町奉行、旗本と相談しながら解決していく様が描かれています。なお、屋敷外での勤務、藩邸周辺の警備にあたる辻番所は近代の交番のルーツだそうです。当時の江戸屋敷の武士、町民の生活が垣間見られた一冊です。

まーちゃんさん)

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