安祥城
安祥城

[愛知県][三河] 愛知県安城市安城町


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.00(--位)
  • 見学時間:47分(--位)
  • 攻城人数:200(338位)

安祥城址の案内板

安祥城址に設置されている案内板の内容を紹介します。

市指定史跡
安祥城址(あんじょうじょうし)
昭和36年10月1日指定

 安城城(安祥城)が築かれた年代や人物は明らかではありません。一節には、室町時代の永享(えいきょう)年間(1429〜1441)、志貴庄(しきのしょう)の地頭、和田親平(わだちかひら)によるともいわれます。
 江戸時代に記された『三河物語』には、岩津城(岡崎市)を本拠としていた松平信光(まつだいらのぶみつ)が、文明8年(1476)ころに安城城を奪い取ったとの記述があります。このとき信光は、きらびやかに仕立てた踊りを安城の「西野(にしのの)」で行い、城内の兵が見物に出かけた間に城を奪ったとされます。その後、信光は子の親忠(長親・道閲)の時代には、安城松平家が一族の総領家(そうりょうけ)としての地位を固めます。3代の信忠(のぶただ)を経て、4代の清康(徳川家康の祖父)は13歳で家督を継ぎ、本拠地を岡崎に移しました。そして、ほぼ全ての三河地方を松平氏の支配下に置くことに成功します。しかし、この清康は、家臣の誤解によって、天文4年(1535)に25歳で殺害されてしまいました。
 天文9年(1540)には、尾張の織田信秀(信長の父)が安城城を攻め取り、三河地方への前線基地としました。この戦いを含め、天文18年(1549)に織田信広(信長の義兄)と織田氏に捕らえられていた竹千代(後の家康)が、「西野」で人質交換が行われるまで、約10年間、3度にわたり安城合戦(安城城争奪戦)がくり広げられました。
 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、安城城は廃城になったとされていました。しかし、近年の研究では、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに備え、徳川勢によって、当時の新しい縄張りの設計による改修が加えられたとも考えられています。
 霊雲院大乗寺(りょううんいんだいじょうじ)が現在の場所に建つのは、江戸時代の寛政4年(1792)以降のことになります。安城市教育委員会
市指定史跡
安祥城址
昭和三十六年一〇月一日指定

 室町時代中期の一四四〇年(永楽一二)和田親平の築城と推定され、はじめ森城と呼ばれていました。三方を湿地にかこまれた台地突端に位置し、北部接続部に壕を掘った中世の本格的城郭(平山城)でした。
 一四七一年(文明三)ころ、松平信光が攻め取り、以後五〇余年間、安城松平四代(親忠・長忠・信忠・清康)の居城となりました。また、松平氏の本拠が岡崎城へ移ると、この城をめぐって松平・今川氏と織田氏との間に、一五四〇年(天文九)から一〇年の間に五度に及ぶ攻防戦がくりひろげられました。
 桶狭間の戦い以後廃城となったと、考えられますが、一五八四年(天正一二)小牧長久手の戦いにあたり、徳川勢によって改修工事を受けたとする説が有力です。郷土の文化財を大切にしましょう。
安城市教育委員会
   

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