甲斐国はもともと武田氏の領地でしたが、甲府城は武田氏滅亡後に築かれました。
躑躅ヶ崎館(武田氏居館)にかわる政治的中心地として整備され、豊臣政権では徳川家康を牽制する要所として、江戸時代には将軍家にもっとも近い親藩の城として重視されました。
廃城・解体後は中央本線の開通と、清水曲輪跡にできた甲府駅の開業により、城跡は分断されましたが、平成に入ってから発掘調査や公園整備が進み、稲荷櫓や鉄門などが復元されています。
甲府城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
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1582年(天正10年) | 織田信長らにより武田氏滅び、信長の支配となる(城代:河尻秀隆) |
1590年(天正18年) | 本能寺の変の後、徳川家康が甲斐を支配(城代:平岩親吉)。豊臣秀吉、家康を関東に移封 |
1591年(天正19年) | 秀吉、羽柴秀勝を配置。秀吉、加藤光泰を甲府城主とする |
1593年(文禄2年) | 光泰、文禄の役に出陣し病没。秀吉、浅野長政と幸長親子を甲斐に配置。この頃甲府城完成 |
1600年(慶長5年) | 「関ケ原の戦い」の結果、浅野氏が紀伊和歌山に転封。家康の支配となる(城代:平岩親吉) |
1603年(慶長8年) | 徳川義直(家康九男)、甲府城主となる |
1607年(慶長12年) | 義直、尾張へ転封し、甲府城番制(武川十二騎)となる |
1616年(元和2年) | 徳川忠長(家光の弟)が甲府城主となる |
1631年(寛永8年) | 忠長、謀反の疑いで幽閉される |
1633年(寛永10年) | 忠長、高崎で切腹。甲府城番制(第2次)となる |
1661年(寛文元年) | 徳川綱重(家光の二男)が甲府藩主となる |
1664年(寛文4年) | 綱重、甲府城大修理を実施 |
1678年(延宝6年) | 綱重の子綱豊が甲府藩主となる |
1704年(宝永元年) | 綱豊が六代将軍家宣となる。柳沢吉保、甲府藩主となり大修理を実施 |
1706年(宝永3年) | 荻生徂徠、「風流使者記」を著す |
1709年(宝永6年) | 吉保が隠居し、子の吉里が甲府藩主となる |
1724年(享保9年) | 吉里、大和郡山へ移封し、甲府勤番支配がはじまる |
1727年(享保12年) | 甲府大火で城内と城下に甚大な被害(本丸御殿、銅門など焼失) |
1734年(享保19年) | 城内に盗賊が侵入(御金蔵破り事件) |
1866年(慶応2年) | 城番制を廃止して城代を置く |
1868年(慶応4年) | 板垣退助率いる官軍が甲府城開城 |
1868年(明治元年) | 明治維新 |
1873年(明治6年) | 政府、甲府城を廃城とする |
1876年(明治9年) | 城内を勧業試験場とする |
1877年(明治10年) | 葡萄酒醸造所を設置(鍛冶曲輪)※現存せず |
1900年(明治33年) | 甲府中学校を建設(楽屋曲輪)※現存せず |
1903年(明治36年) | 中央線、甲府まで開通(清水曲輪等) |
1904年(明治37年) | 甲府城跡を舞鶴公園として解放 |
1906年(明治39年) | 城内で連合共進会を開催。遊亀橋を建設 |
1917年(大正6年) | 甲府城払い下げ。村松甚蔵の寄付により県有財産となる |
1922年(大正11年) | 本丸に謝恩碑を建設 |
1926年(大正15年) | 内堀の埋立て、県庁舎を建設 |
1928年(昭和3年) | 二の丸に武徳殿を建設 |
1953年(昭和28年) | 恩賜林記念館を建設(鍛冶曲輪) |
1955年(昭和30年) | 内堀を埋立て、県庁舎を建設 |
1965年(昭和40年) | 青少年科学センターを建設(稲荷曲輪)※現存せず |
1966年(昭和41年) | 県議会議員会館を建設(二の丸)※現存せず |
1968年(昭和43年) | 県指定史跡として告示(史跡名称「甲府城跡」となる) |
1990年(平成2年) | 舞鶴城公園整備事業に着手 |
1997年(平成9年) | 鍛冶曲輪門復元完成 |
1999年(平成11年) | 内松陰門、稲荷曲輪門復元完成 |
2004年(平成16年) | 稲荷櫓復元完成。整備事業完了 |
2010年(平成22年) | 鉄門復元整備事業着手 |
2013年(平成25年) | 鉄門復元完成 |