若林城跡に立てられた案内板の内容を紹介します。
若林城築城の目的は、嫡子忠宗が大名に準ずる待遇を受けるようになったことにともない、大御所的立場となった政宗が、隠居所として築いたとする説があります。
若林城跡(わかばやしじょうあと)
仙台藩祖伊達政宗の晩年の居城跡である。当地は戦国時代の領主である国分氏の城があったとされ、城の北側では同時期の屋敷跡が発掘されており、薬師堂(陸奥国分寺跡の地)門前の町場とともに、一帯は政治的・経済的拠点の一つであり交通の要衝であった。城の位置の選定にあたってはこれらの利点を考慮したと考えられる。現在の「若林区」の区名はこの若林城に由来している。
この城は広瀬川の自然堤防上の微高地に立地する平城である。寛永4年(1627)築城が開始され、翌年に完成した。城の規模は東西約400m、南北約350mである。
縁辺には土塁、その外側に堀をめぐらす。北東隅・北西隅・南辺の中央部に張出しがあり、出入口は大手(表門)と考えられる西辺をはじめ、東辺と北辺の中央に設けられている。
内部には政宗の居所の他、櫓が構えられ、庭園も造られていたとされる。現在も刑務所内にある「朝鮮ウメ」(臥龍梅)は、政宗が朝鮮出兵の際、持ち帰ったと伝えられている。
城の周囲には家臣の屋敷や米町、絹布町などの町屋敷が置かれ、小城下町(若林城下町)が形成され、実際に幾つかの家臣の屋敷跡が発掘されている。
政宗は、晩年正月の行事などに仙台城を訪れるほか日常生活の大部分は若林城で過ごしたが、寛永13年(1636)政宗の死後、若林城下町とともに廃された。城内の建物は、寛永16年(1639)、建設中の仙台城二の丸などに移され、跡地は薬園などとして利用された。明治12年(1879)、宮城集治監が建設され、現在の宮城刑務所に至っている。仙台開府四百年記念
平成13年3月 仙台市教育委員会