若狭国吉城歴史資料館に提供いただいた国吉城の縄張り図(国吉城址地形測量図)です。
この縄張り図について、若狭国吉城歴史資料館からコメントをいただきました。
本測量図原本は、平成9年頃に作成した国吉城址地形図を補正するため、平成14~15年に主要遺構部分(山城部と城主居館部)のみ20cmコンター図(S=1/100)を別途作成し、合成したものです。
主に国吉城址史跡調査や国吉城址史跡公園等環境整備計画策定に係る基礎資料として作成しました。
カラー図(お送りしたもの)は、平成18年に『佐柿国吉城ブックレット 国吉城の章第1巻 佐柿国吉城址を歩こう~見どころ編~』に掲載する図版として、1mコンター図に当時の発掘調査後に露出展示した石垣位置(主に城主居館跡)を追加し、視覚的に判りやすいように曲輪部と斜面、遺構部(堀切、土塁等)を色分けしたものです。
その後の発掘調査で、山城部石垣が出土していますが、それは反映されておりません(発掘後、一部を除き埋め戻しているため)。
基本、現況も本図製作時と大きな変化はありませんので、城跡散策にご利用いただくぶんにはまったく不都合ありません。
なお、発掘調査前は、戦国期の土の城の様相を残す城跡として知られていましたが、発掘調査が進んだ現在は、現況地形は破城後(石垣を崩し、一部の曲輪を削り埋め立て)の姿であり、破城前は主要部が総石垣化した織豊系城郭であったことが明らかになっています。
つまり、現況地形の城跡は、朝倉勢相手に激しい籠城戦を展開した戦国期の様相を留めておらず(伝二ノ丸や連郭曲輪群の石垣が及ばない曲輪は、戦国期の可能性もある)、破城によって石垣が崩された跡が、戦国期の土の城跡のように見える......ということです。
逆に言えば、現況の縄張りは破城後に改変されたもので、存城期の姿とも異なる......といえます。
コンター図というのは密度図や等値線図ともいうんですけど、この場合は標高が同じ部分を線で結んだもの(等高線)のことをいいます。いわゆる「等高線図」ですね。
(ほかにも気温、気圧などでつくられたものも天気予報のコーナーなどでよく見ますよね)
(ほかにも気温、気圧などでつくられたものも天気予報のコーナーなどでよく見ますよね)
国吉城は1634年(寛永11年)に入封した酒井忠勝が小浜城を完成させ、居城としたことにともない廃城となりましたが、その際にかなり破壊されたようで、もともとは総石垣の織豊系城郭だったようですね。
秀吉に仕えた木村重茲(木村定光)が城主でしたから当然でしょうけど。
若狭国吉城歴史資料館では模型などを使って国吉城の構造を理解したり、出土品なども展示されているので、訪問した際には先に立ち寄って見学するのがいいと思います。