小幡城跡に設置されている案内板の内容を紹介します。
町指定文化財小幡城は、大掾詮幹(だいじょうのりもと)の三男義幹(よしもと)が室町時代(むろまちじだい)(一四ニ〇年ごろ)に築いたという説と、小田知重(おだともしげ)の三男光重(みつしげ)が鎌倉時代(かまくらじだい)(一ニニ〇年ごろ)に築いたという二説がある。
戦国時代(せんごくじだい)の文明年間(ぶんめいねんかん)(一四八一年ごろ)以後は、水戸城(みとじょう)の江戸氏(えどし)の影響下に入る。
現在の城域約十二ヘクタールが整備されたのは、元亀(げんき)~天正年間(てんしょうねんかん)(一五七〇年代)と思われ、府中城の大掾氏を攻める拠点として重要な役割をはたしている。
安土(あづち)・桃山(ももやま)時代の天正十三年(一五八五年)の書状には小幡城将として大塚弥三郎(おおつかやさぶろう)と小幡孫ニ郎(おばたまごじろう)の名が見える。この頃の城の守りを強化するため、涸沼(ひぬま)周辺の土豪(どごう)が当番制で動員されている。 天正十八年(一五九〇年)十二月、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の権力を背景にした太田城(おおたじょう)(常陸太田市)(ひたちおおたし)の佐竹義宣(さたけよしのぶ)により、水戸城の江戸氏は城をうばわれ、府中城の大掾氏は滅亡、この時小幡城も落城した。
その後、小幡は佐竹氏の秋田(あきた)移封(慶長(けいちょう)七年・一六〇ニ年)まで佐竹義宣(さたけよしのぶ)の直轄地(ちょっかつち)となり、家臣の和田昭為(わだあきため)が管理している。小幡城は天正十八年の落城、あるいは佐竹氏の移封の時に、数百年にわたる歴史的役割を終えたと考えられる。茨城町教育委員会