松本が武田信玄支配下であった頃、対立する今川・北条が太平洋側からの南塩の道筋を封鎖しました。
そのことを知った上杉謙信が糸魚川ルートで北塩を牛車に積んで贈り、それが到着した地点だと言います。
またこの日を上杉謙信の義侠心と塩への感謝の日として初市の日にしたそうです。敵に塩を送る、発祥の地かな。
松本が武田信玄支配下であった頃、対立する今川・北条が太平洋側からの南塩の道筋を封鎖しました。 そのことを知った上杉謙信が糸魚川ルートで北塩を牛車に積んで贈り、それが到着した地点だと言います。 またこの日を上杉謙信の義侠心と塩への感謝の日として初市の日にしたそうです。敵に塩を送る、発祥の地かな。
総堀がの西側の一部だけ残った土塁を取り込んだ公園で、お城の外郭防御がよくわかる案内板もあります。
三ノ丸に唯一残る朱塗りの建築遺構なんですが、裏がゴミ置き場にされています。
本丸に入る門で、本丸御殿にも通じる正式な門です。 昭和35年に復興される際に天守から再利用した、歴代藩主の家紋の付いた軒丸瓦が見られます。
1617年に入封した戸田氏が祀ったとされます。この神様のおかげで松本城が火災に遭わず残ったともいわれているそうです。 重い瓦屋根の軒先が下がらないように支えるため、桔木構造が取り入れられています。
本丸御殿は藩の正政庁かつ城主の居館でしたが、1727年に焼失し、その後は二の丸御殿に政庁が移りました。 消失は残念だけど、天守が焼けなくてよかったですね。
地上からは見えづらかった埋門の奥、天守からよく見えます。 赤に若宮八幡跡も見えます。
三方向に朱塗りの回縁が巡っていて、華やかです。家光の上洛の帰り道、善光寺参詣の途中に(松本に寄る)との内意を受けて普請されたとされます。 東側にはは本丸御殿が広がっているけど、南中する頃になれば内堀に月が写るのかなあ、それならばステキだろうな。
左側は武田信玄ゆかりの小笠原牡丹が咲くエリアになっています。 ボタンが咲くとステキでしょうね。
月見櫓の下に船着場の細い石階段があります。 野面積みの石垣が目前です。
やっぱりこの角度から見ると広がりがあってカッコいいですね。
今の埋橋のあたりは、戸田氏の時代には堀の中に塀が築かれていて、内堀と外堀が仕切られていたそうです。赤が映えますね。
城主戸田氏の祖神と城の鎮守社を合祀した神社。 この神社前にも美味しい水の井戸があります。
二の丸は四方を水堀で囲まれていました。二の丸の四隅には二重櫓がありました。東北櫓は土塁の上に設けられていました。
1867年に造られ、当時は御金蔵として使われていました。 1876年の旧二の丸御殿火災の時に焼け残りました。
門松があってお正月バージョンになっていました。
太鼓門の前、市役所本庁の5階までエレベーターで上がり、階段を登ると展望所があります。窓を開閉して眺めることができます。 北アルプスをバックにした松本城全体が見渡せてて、来てよかったと思いました。太鼓門あたりは工事中、内堀も浚渫作業をしていました。
市役所の東側に数百メートルだけ残っています。
石川康長は総堀の外側にも堀を作りはじめましたが、改易に遭い、工事は途中になりました。 この堀の起点付近に残された土塁跡です。
北門馬出しの堀の形の名残があります。井戸は総堀が埋め立てられた後から湧き出たものです。
攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)
攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック
いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する