「常盤国笠間之城絵図」(正保城絵図)によれば、江戸時代には2重の天守があったことが描かれていますが、具体的な外観や構造はわかっていません。
田中嘉彦(笠間史談会会長)によれば、天守は移築現存する八幡台櫓とほぼ同一の構造であったと推測しています。
1873年(明治6年)以降に建物は取り壊されましたが、解体された天守の廃材は現在、天守台の上に鎮座している佐志能神社の社殿として転用されています。
ちなみに「正保城絵図」とは1644年(正保元年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図のことです。
そのため「2重の天守」というのも、幕府への配慮から本来は3重の天守だったものを2重に描いた可能性も少なからずあると考えられます。