岩倉城
岩倉城

[鳥取県][伯耆] 鳥取県倉吉市岩倉


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.25(--位)
  • 見学時間:41分(--位)
  • 攻城人数:8(3471位)

案内板

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ぴんぞう
   

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カメラ情報

機種名Apple iPhone 14 Pro
ISO80
F値1.8
ホワイトバランスオート
シャッタースピード1/2203
レンズ焦点距離6.9 mm
フラッシュフラッシュ未発光、強制発光モード
露出モード自動露出
露出時間1/2203
画像方向水平(標準)

文字起こし

小鴨氏と岩倉城
 小鴨(おかも)氏は、律令(りつりょう)時代─奈良・平安時代─すでに名があり、伯耆国庁につとめた在庁官人の家柄と考えられている。平安時代の末期に、寿永元年(一一八二)小鴨基保(もとやす)が西伯耆の豪族紀成盛(きのなりもり)と戦った記録がある。
 鎌倉時代に、小鴨氏は岩倉山(海抜二四七メートル)の山上に砦を築き、ここを代々の居城とした。
 元弘三年(一三三三)後醍醐(こたいこ)天皇が船上山に潜幸の際、名和氏の軍勢により小鴨城が攻略されたという記事もあるが、よくわからない。
天皇が京都へ還幸になるとき、小鴨氏基(うしもと)は供奉したといわれている。
 応仁の乱(一四六七~一四七七)には、伯耆守護山名教之(やまなのりゆき)に従い、小鴨安芸守之基(あきのかみゆきもと)は主人に変わって防戦し、船岡山の戦いで討死した。
 大永四年(一五二四)五月、尼子経久(あまこつねひさ)が出雲より伯耆へ侵攻し、伯耆のすべての城が陥落し、小鴨氏の岩倉城も落城の浮目にあった。
 永禄四年(一五六一)西国より起こった毛利(もうり)氏が強くなり、羽衣石(うえし)城の南条(なんしょう)氏と共に毛利氏に加担して尼子氏に反攻。永禄九年(一五六六)尼子氏は毛利氏に降伏し、小鴨氏は南条氏と共に吉川元春(きっかわもとはる)の配下となった。
 元亀(けんき)元年(一五七〇) 山中鹿之助(やまなかしかのすけ)の配下に一時奪われたが、因幡の湯原(ゆはら)氏の応援を得て奪還した。
 天正七年(一五七九)小鴨元清(もときよ)は南条元続(もとつく)と共に毛利氏から離れ、織田(おだ)氏に帰属することになった。毛利氏は吉川元長(もとなか)を長として圧倒的な軍勢をもって、岩倉城に猛烈な攻撃をしかけて来た。天正十年(一五八二)五月のことである。忠勇十二勇士の誓願盟約による奮戦も空しく、遂に落城した。城主小鴨元清は南条氏を頼って羽衣石に逃れ、ここに岩倉城の歴史は幕を閉じた。
小鴨地区総合開発協議会

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片桐且元さん)

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