機種名 | Apple iPhone 14 Pro |
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ISO | 80 |
F値 | 1.8 |
ホワイトバランス | オート |
シャッタースピード | 1/2203 |
レンズ焦点距離 | 6.9 mm |
フラッシュ | フラッシュ未発光、強制発光モード |
露出モード | 自動露出 |
露出時間 | 1/2203 |
画像方向 | 水平(標準) |
小鴨氏と岩倉城
小鴨(おかも)氏は、律令(りつりょう)時代─奈良・平安時代─すでに名があり、伯耆国庁につとめた在庁官人の家柄と考えられている。平安時代の末期に、寿永元年(一一八二)小鴨基保(もとやす)が西伯耆の豪族紀成盛(きのなりもり)と戦った記録がある。
鎌倉時代に、小鴨氏は岩倉山(海抜二四七メートル)の山上に砦を築き、ここを代々の居城とした。
元弘三年(一三三三)後醍醐(こたいこ)天皇が船上山に潜幸の際、名和氏の軍勢により小鴨城が攻略されたという記事もあるが、よくわからない。
天皇が京都へ還幸になるとき、小鴨氏基(うしもと)は供奉したといわれている。
応仁の乱(一四六七~一四七七)には、伯耆守護山名教之(やまなのりゆき)に従い、小鴨安芸守之基(あきのかみゆきもと)は主人に変わって防戦し、船岡山の戦いで討死した。
大永四年(一五二四)五月、尼子経久(あまこつねひさ)が出雲より伯耆へ侵攻し、伯耆のすべての城が陥落し、小鴨氏の岩倉城も落城の浮目にあった。
永禄四年(一五六一)西国より起こった毛利(もうり)氏が強くなり、羽衣石(うえし)城の南条(なんしょう)氏と共に毛利氏に加担して尼子氏に反攻。永禄九年(一五六六)尼子氏は毛利氏に降伏し、小鴨氏は南条氏と共に吉川元春(きっかわもとはる)の配下となった。
元亀(けんき)元年(一五七〇) 山中鹿之助(やまなかしかのすけ)の配下に一時奪われたが、因幡の湯原(ゆはら)氏の応援を得て奪還した。
天正七年(一五七九)小鴨元清(もときよ)は南条元続(もとつく)と共に毛利氏から離れ、織田(おだ)氏に帰属することになった。毛利氏は吉川元長(もとなか)を長として圧倒的な軍勢をもって、岩倉城に猛烈な攻撃をしかけて来た。天正十年(一五八二)五月のことである。忠勇十二勇士の誓願盟約による奮戦も空しく、遂に落城した。城主小鴨元清は南条氏を頼って羽衣石に逃れ、ここに岩倉城の歴史は幕を閉じた。
小鴨地区総合開発協議会
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