熊野市西山地区地域まちづくり協議会によって作成された赤木城跡の公式パンフレットです。
赤木城と周辺の歴史
赤木城の麓には田平子峠を越え、入鹿・本宮に通じる十津川街道と、赤木城の東側には風伝峠から吉野方面へと抜ける北山街道が走っています。この辺りは古来より銅などの鉱山資源に恵まれ、中世には入鹿で盛んに刀鍛冶が行われました。森林も豊かで戦国期にはたびたび熊野の木材が切り出された記録が残っています。
古代には熊野三山(熊野三社)に属し、中世に入ると入鹿氏などの武士が台頭しました。天正13(1585)年豊臣秀吉の紀州侵攻によって、その支配下に入りました。この辺りでは、厳しい支配に対して大規模な一揆が再三起こったことから、この地に赤木城が築かれたと考えられてます。赤木城の築城年代について
『紀伊続風土記』(紀州藩が編纂)
寛文記を引いて「天正年間(1573~1592)藤堂佐渡守(のち和泉守高虎)が北山代官のとき築き、罪を犯した者を赤木城の西方の田平小峠で斬首し獄門にした」と記されている。
『倉谷家文書』(飛鳥町神山)
「天正十六年(1588)大和大納言(豊臣秀長)の北山攻め後、築城した」とある。
藤堂高虎は、天正13年(1585)の紀州攻めの際、北山入りし、文禄4年(1595)、四国伊予三郡を与えられるまでの11年間、北山付近に在居した。この間、天正15年(1587)も北山一揆で一揆方を成敗したり、北山材の切り出しを行ったりしており、この頃に現在の城郭に整備したものと考えられる。「熊野市の文化財より」
(所在地)三重県熊野市紀和町赤木字城山 (標高)230m
赤木城の構造
赤木城は主郭を中心に三方の尾根と山裾に郭が設けられています。尾根を利用して築かれた郭配置は、中世山城の様相を引き継いでいます。一方、高く積まれた石垣や横矢掛かり、発達した虎口などは、近世城郭の要素が見受けられ、過渡期の城郭であることを表しています。また、石垣に反りがなく自然石をそのまま積み上げる手法も過渡期の要素と言えます。石垣は、主郭や東郭のように周りからよく見える所は高く丁寧に積まれ、北郭や西郭にように見えにくい所は石垣が低かったり、角度が緩くなっています。見栄えを意識して築かれていたことがわかります。